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世を毒する言動、空疎な報道・社説・論説等に遠慮仮借なく鉄槌を下します。


by dokkyoan
此処では宮崎市定京都大学名誉教授(故人)の歴史観、所謂「宮崎史観」に沿って、後漢滅亡(220年)から北宋建国(960年)までを「中世」、北宋建国以降を「近世」としますが、東アジア全体で捉えた場合、ペリー来航(1853年)で「近世」と「近代」を区切りたいと思います。


古代の東アジアはそれすなわち中国と呼んでも良いほど、春秋から秦漢帝国に至るまで中国の独壇場でした。

前漢の武帝が楽浪郡を含む四郡、すなわち入植地を遼東半島以東から朝鮮半島北部にわたって設営したのも、入植地としてはそこまでが限界で、それより遠隔地(朝鮮半島の殆どと「倭」)は「入植の価値無し」と判断されたことになります。

その証拠に楽浪郡等の設営が紀元前108年、「倭」の使者が後漢光武帝に謁見したと言われるのが紀元57年、時の皇帝に拝謁を許されると言うことは、曲がりなりにも「国家(国王)」を自称し、それを相手側に納得させるだけの状況下に無ければなりません。

つまり紀元前108年から紀元57年の150年間、「倭」は中国側の都はおろか、近くの入植地にまでたどり着く術(航海術、陸路の確保)を持たず、まず「誰が国王を自称するか」を決める「国王称号争奪戦」が繰り広げられいました。

ですから中国側が船を手配したり使節の安全を確保してやろうとしても、交渉する相手が決まっていない状況では無駄です。

その交渉相手が一本化され、「国王」の使いがやってきたのが57年、中国人は遠来からの朝貢や珍奇な相手を喜びますので、曲がりなりにも「島国=海上国家」倭の来貢は大きな関心と反響を呼んだと思われ、だから光武帝直々の拝謁になったと考えられます。

因みに107年にも倭は使節を派遣していますが、これは57年とは異なる政権が樹立されたことの報告及び承認を受けるためで、当時の「倭」としては洛陽まで足を伸ばすのは負担が大きく、通常の遣り取りは楽浪郡を初めとする「入植地」で済ませていたと思われます。

換言すれば、古代中国は「入植地」以遠には領土的興味は無く、強いて言えば高句麗を初めとする「入植地」周辺の諸国との交流がその限界、朝鮮半島の大部分と「倭」は「化外の地」だったでしょう。

換言すれば古代中国は入植地以遠に対し、極めて平和的と言いますか、侵略(入植)の意図はありませんでした。


「倭」のことを尋ねても「倭」自身が分かっていませんから、答え様がありません。

どの程度の大きさの国なのか、その先には何があるのか、分からないものは分かりませんが、黒潮にでも流されようなものなら、二度と故郷に戻れないのは間違いなく、日本海流はある意味「境界線」であり「水の壁」でした。


中国が朝鮮半島と「倭」にとって脅威となるのは中世です。

(続く)
# by dokkyoan | 2012-09-11 10:50

中国史からみた軍閥論

少なくとも後漢の途中から、分権化と並行する形で群雄割拠の萌芽が現われ、後漢末期の董卓も軍閥の領袖と言えます。

その後漢末期(184年、黄巾の乱)から五代十国時代(~960年)を経て、小誌で言うところの「北宋以降(960年)」も、政治的主題は「軍閥を如何に扱うか」だったと思われます。


後漢末期から隋による全土統一に至るまで、中国における正義は「馬上天下を取る」ことであり、「軍閥は国家なり」でした。

それに対し、「北宋以降」の特徴は「軍閥に対する国家の優越」或いは「国家からの軍閥の分離」で、岳飛が何故謀殺されたか、或いは康熙帝が強硬路線と採用して三藩の乱で反対勢力を鎮圧したのか、いずれも軍閥が徴税権や人事権まで壟断し、「国家内国家」を形成しようとしたからです。

従って、共産主義国家の今でも軍閥は中国各地に割拠していると考えるのが自然で、「小中華主義者」蒋介石は「己以外の軍閥は認めない、認めるとしても利用価値があり、尚且つ二等軍閥の地位(=いずれ解体)に甘んじる者のみの帰参を許す」と言う態度は、中央集権と、その他の軍閥の否定及び抹殺と言う点で斬新な考えでしたが、「己以外の全ての軍閥」を唯一の対抗馬である共産党に結集させる副作用もありました。

今の中国では共産党要人と軍閥が結託している筈で、それらの要人を総称して「太子党」と呼びます。(厳密には「軍閥系太子党」で、その他に「裏社会系太子党」が存在します)


中国近世は軍閥を如何に制御するかと言う難題に取り組んだ期間と言えますが、その結論は「異民族の軍事力に頼るに限る」、これが近世を通じて中国の主権者であった「士大夫層=宗族階級=大地主=或いは郷紳」の出した結論でした。

つまり漢民族だけだと民族統一すら覚束ない、国土が分裂してしまう、そこで異民族に「皇帝」と言う名目上主権を与え、実権は己達が「文官として」握るのが一番と言うのが、士大夫層の回答でした。

この「漢民族だけだと民族統一すら覚束ない」と考えなかったのが孫文ですが、現実を直視しないがために民国初期の無秩序時代をもたらしました。

孫文は革命の父かも知れませんが、同時に「無政府状態の父」でもありました。


それに対し、蒋介石と毛沢東は「漢民族には民族統一の能力がない」と言う点で一致していましたが、「だったら諸軍閥を磨り潰してやる」と考えて米国と言う「軍事力に長じた異民族」と手を結んだのが蒋介石で、「国土統一(或いは民族統一)」と言う点では一歩進んでいましたが、「異民族の手を借りる」考えは旧態依然としたものでした。

「来る者は拒まず受け入れる」毛沢東の大連立型政権は、建国直後から己の統治能力の無さを露呈することで、「漢民族だけだと民族統一すら覚束ない」との歴史的教訓の正しさを立証するだけでなく、自らがあらためて軍閥化することで文化大革命を引き起こしました。


蒋介石と毛沢東、そして孫文が残してくれた貴重な教訓、それは「俺達には統治能力がない、だけど権力は欲しい」人間集団は否定されるべきと言う、当たり前の真実です。

(続く)
# by dokkyoan | 2012-09-06 23:45

日本 ~この難儀な国~

東アジアの「近代」の起点を何処に置くか、その外見は兎も角、中国や朝鮮半島が未だ近代に到達するに至らず、それに対し台湾が、蒋介石と言う「前近代」を消化し得た現実を踏まえると、やはり「明治維新」乃至「開国」に答えを求めるのが妥当と思われます。

ただ、そこに至るまでの「近代助走期」を見逃してはならず、開国に至る数十年前から幕閣は、開国とそれに伴う深刻な影響については、腹を括っていたと思われます。

問題は如何に上手に開国するかで、状況次第では開国どころか「亡国」になってしまう惧れも多分にありました。

それ程までに近代「列強」との距離は大きかった訳で、後に長州や薩摩が戦争を仕掛けますが、大英帝国を初めとする西洋列強が、それを口実に日本征服に乗り出さなかったのが、不思議な位です。


開国に際してどうしても譲れない条件、それは「最初の開国相手は英国であってはならない」ことでした。

これは大英帝国が当時の最強国だとかそう言う理由ではなく、フェートン号事件で長崎にて乱暴狼藉を働いたのが、英国船籍だったからで、云わば当時の日英は「潜在的敵対関係」にあったと言えます。

開国に不平等条約が付きものなことは、1840年の阿片戦争以降の中国情勢を眺めていれば分かる話で、「前科者」の英国と最初に不平等条約を結ぶことは論外と言えます。

ですが「最も仲良くしたい、機嫌を損ねたくない」列強も大英帝国で、島国日本を占領する可能性があるのは、やはり「海の覇者」であり、日本が生き抜くための手本、つまり「近代化=列強への変貌」を成し遂げるための必要条件は英国で、ですから「非英国的紳士国家」米国は当て馬に過ぎず、当時の江戸幕府の要人は英米と言う二大海洋国家を手玉に取ったことになります。


兎に角、日本と言う国は開国から現代に至るまで、米英の予想に反する結果ばかり出します。

日清戦争では「日本は善戦するかも知れない」と言う大方の味方を裏切って完勝、列強にとってこの戦争の最高の筋書きは「日清共倒れ、漁夫の利」でしたが、その可能性を抹殺する共に、列強の姿勢を「中国侵略一本槍」に傾斜させるうえで絶大な効果がありました。

日露戦争は大英帝国が後ろ盾に付いていましたから、ある意味で「負けない戦争」でしたが、帝政ロシアの誇る太平洋艦隊とついでにバルチック艦隊まで海の藻屑にして、欧州の軍事的均衡を根本から崩したのですから欧州にとっては良い迷惑で、大英帝国を含め誰も日本に「ロシアに勝ってくれ」とは言っていません。

満州事変で蒋介石の中国全土統一の野望を挫いたばかりか、日支事変(日華事変、日中戦争とも)では「小中華主義者」蒋介石をしても譲れない「中国中枢部」を席巻、ここで大英帝国と「取引」出来る余地はあったのですが、西欧列強と日本「帝国主義」の最大の相違点は、前者が「裕福な列強」なのに対し後者は「常に飢餓感と貧困を伴った列強」で、それだけ妥協の余地はありません。

蒋介石が重慶に逼塞したことで、蒋介石を一種の「代理人」として中国進出を考えていた米国が激怒、ここに「超大国の卵」同士の太平洋戦争が勃発しました。

大日本帝国を屠ることに成功し、超大国の椅子を手に入れた米国ですが、日本を占領した筈なのに「国体問題=天皇助命」問題で占領軍が逆包囲される羽目に、これでは何の為に朝鮮半島南部を支配したのか分からず、身動きできない隙を衝かれて「英国・中国共産党・弱小軍閥連合」に蒋介石国民党政権が敗北、中国を手に入れると言う米国の願望ははまたしても夢と終わりました。

その後も経済大国になって盟主であるべき米国を脅かし、技術や最近では文化面でも一部で米欧を凌駕しつつある日本、第二次世界大戦における対米、対英戦をみる時、仮に大英帝国が「近代」で留まっていたとすれば、太平洋戦争開戦時の日本は間違いなく「現代化」していました。

(続く)
# by dokkyoan | 2012-09-03 22:26

米英暗闘

中朝関係は「血とべトンで固めた友誼」と形容されることが多いですが、今となってはそれも有名無実化し、それでも表向きはあくまで(軍事)同盟関係にあります。

ですから内実はいがみ合っていても、外圧が加われば「一致団結」するのが建前で、関係に綻びが生じていることを決して表面化させてはいけない義務が、特に宗主国の立場にある中国側に生じるのは已むを得ません。


米国と英国が特別に親密な関係にあると言う通説についても、仮に兄弟だとすればこれ程までに仲の悪い兄弟も無く、表面上は「特別な同盟関係」、でも机の下では足の蹴り合いです。

中国共産党政治局員だった薄煕来氏の夫人の裁判が幕を閉じましたが、英国人実業家殺害容疑と言いますから、英国の影響力は太子党の少なからぬ部分に浸透していたことになります。


欧州人と言うのは面白い発想をするもので、PLO(パレスチナ解放戦線)を長年率いてきたアラファト議長(故人)の奥さんはフランス人、その結婚が「純粋な恋愛」に基づくと仮定しても、フランス側が放っておく訳がなく、PLOは議長の死まで一種の「フランス利権」であった可能性があります。

因みにミャンマーのジャンヌ・ダルク、スー・チー女史の旦那さんは英国人、女史が長年に亘って地名を含む固有名詞を英語読み(ミャンマーでなくビルマ、ヤンゴンでなくラングーン)していたことと偶然ではありますまい。


ミャンマーは米英中角逐の舞台で、太平洋戦争では割って入った日本軍を巡って、米軍将校の指導を受け指揮下にあった国民党系「新軍」に日本軍が苦しめらる一方、当時のビルマから叩き出された大英帝国も、本国人だけで構成される「英国軍」と、指揮官と将校は英国人、兵隊はインド人と言う「英印軍」でビルマ奪回を企てますが、米英間に緊密な連携が存在した形跡は、戦史を読む限り感じることが出来ません。

そして先日まで、ミャンマーは軍部独裁政権、在野の代表格が上述の英国人を夫に持つスー・チー夫人(国籍はどうなるのでしょうか)、その軍部独裁政権の後ろ盾で「表向きの」宗主的存在が中国、但しその窓口が重慶や雲南省辺りだとすれば、その周辺の軍団(軍閥)に英国が食い込んでいたとすれば、これはもうミャンマー情勢そのものが出来レースと言うか一種の八百長、「隠れ大英帝国(英連邦)」と言うべき存在です。

従ってミャンマー側が雲南(或いは重慶)を袖にして北京(党中央)に近づき、同時に民主化に理解をあるところを見せ始めるや、米国がその姿勢を賞賛して国務長官を送り込んだ一連の出来事は、それまでの「ロンドン・ラングーン・雲南(薄煕来前政治局員から習近平国家副主席に繋がる)」枢軸を、「ワシントン(の反英勢力)・北京(胡錦濤政権)」連合が覆したのではないか、そう思われる節があります。


東アジアにおける「近代」とは、最終的に英米角逐の形成に至るまでに、如何にして「近世」すなわち「食われる側」から列強(=食う側)へと変貌を遂げるか、或いはそれを拒否するか、変貌するならそのための必要条件は何かを模索し続けた時代ではないかと思われ、その問いに唯一、及第点の回答を提出したのが日本です。

幾ら真似をしても、つまり「近代化」に邁進しても「己の近代」を見出さない限り「近代国家」にはなり得ず、ましてや「現代」更には今後待ち構えるであろう「超現代」に至ることは夢のまた夢で、韓国が間もなく没落し、中国も近い将来において苦境に至るとすれば、それは両国が「近代」に至っていないからで、皮肉にも無い無い尽くしの北朝鮮の方が「近代の扉を叩く」可能性があります。

そして現在、欧州危機が叫ばれていますが、欧州大陸部すなわちリスボンからモスクワまでの「広義の欧州」は国家経済が軒並み破綻して「焼け野原」になりますが、米国経済の中枢を担う勢力にとっての「終着点」はロンドンではないか、大英帝国及び英連邦解体がその「最終目的」ではないか、昨今の英国系金融機関で相次ぐ不祥事も、オッペンハイマー財閥がデ・ビアス株全て(全体の40%)をアングロ・アメリカンに売却した事実(85%の株主に、残り15%はナミビア政府所有、誰かの傀儡でしょうが)も、最終局面に近づきつつある米英角逐を踏まえるべきではないか、そう思料する次第です。

(続く)
# by dokkyoan | 2012-08-22 00:28
お蔭様で地獄の淵から戻って参りました。

その間、朦朧とした頭で中国近現代史関連書籍を二冊、太平洋戦争関連書物も二冊、読了しましたが、それにしても東條英機、寺内寿一(1946年、獄死)、河辺正三(1965年没)、そして牟田口廉也(1966年没)には一人の日本国民として怒りを禁じ得ません。(この4名だけ例外的に敬称略)

東條と寺内の確執が一方にあり、他方で現地(方面)軍の暴走と言うには余りに稚拙な、要は東條内閣倒閣の動きを封じ込めるためと言う、極めて矮小化された、しかも戦局や戦略とは無関係な発想から、同じ国民の数多の命を、ビルマ戦線で塵芥の如く捨て去り、戦線の崩壊を促した己の責任を感じる様子もありません。

日本にも愚将や凡将はいますが、いずれも統帥下にあって任務をこなせるか否かの問題です。

しかしビルマのインパール作戦はあくまで私的なもの、1943年9月の御前会議にてビルマが所謂「絶対国防圏」の西の砦を担った関係で、同時に一旗挙げたいと言う現地軍最高首脳の「妄想」と、自己保身の汲々とする東條、その東條の失策を待ち望む寺内の心中が交錯して始まった作戦で(だから参謀と名のつく者は、上は参謀本部作戦部長から、下は現地師団参謀まで全員作戦反対)、断じて統帥の則って遂行されたものではありません。

己の都合や思惑「だけ」で兵を動かし多数の同胞を殺しておいて平然としていられるのは、戦場にあっても人間の所業ではなく、悪鬼羅刹の仕業です。

仮にこの4名が靖国神社に納骨されていると言うのであれば、参拝すべきでないと言うのが小誌見解です。


中国関連書籍を読んで感じたこと、「この二冊の索引を徹底して調べ上げ、活用すれば、絶対に国共内戦から文化大革命の終結と言う、中国の退歩最終段階が解明出来る」、逆に言えばそれほどまでに中国のことを知らないまま中国問題に首を突っ込んできたのだから、我ながら度胸満点です。

軍閥は形を変えて今も残っていますし、文化大革命の前段階として劉少奇と鄧小平らが実施した組織の簡素化に伴い、「一生楽に暮らせる」と思い込んでいた「革命戦士」達が整理されたことは、重くみるべきと思われます。

しかし、大躍進政策の端緒はフルシチョフとの意地の張り合いでしょうし、スターリン亡き後のソ連が「修正主義」なのは、毛沢東がスターリンに位負けして頭を下げた以上、スターリンがどんなに憎くとも、批判することは毛沢東批判にも繋がるからご法度、こんな自己中心的な「聖人」や「建国の父」が日本にいなくて良かったです。

中国が共産主義国でもそれはその国の勝手ですが、毛沢東を葬らない限り中国に「近代」は訪れません。

(続く)
# by dokkyoan | 2012-08-07 15:02