倭は高句麗に次ぐ古代東アジアの「先進国」

高句麗は紀元前1世紀に段階で前漢から「高句麗王」の称号を受けていましたが、新の王莽が称号を高句麗「侯」に引き下げたことに腹を立て、命令に服さないでいると討伐を受けた挙句に「降句麗侯」と言う屈辱的な称号を与えられます。

王莽が建国した新は紀元23年に滅び、その後を襲った後漢の光武帝は同32年に称号を「高句麗王」に戻すと宣言しますが、当時の高句麗からすれば、その心の傷は大きく、楽浪郡に朝貢したのが47年、倭の「奴国王」の使節団が光武帝に拝謁したのが55年ですから、後の百済や新羅と比べて日本の方が「先輩」です。

ただ、高句麗は滅亡まで「万世一系」ですが、倭の場合はおそらく、57年の使節を派遣した政権と107年とは別国家で、更に「恒霊の間(146年~189年)」の後、3世紀前半に現われた卑弥呼政権はまた別の代物と解釈すべきで、楽浪郡を含めた四郡と言う「入植地」の向こうには、高句麗を筆頭とする諸勢力が、今の満州地方を中心に割拠し、朝鮮半島は概ね空白地帯、そして政権(王国)が入れ替わりながら海の向こうに「倭」が存在すると言う構図です。


王莽の「功績」は何と言っても四郡の向こうまで服属すべきと初めて主張した訳で、「入植地」と言う「文明」と「野蛮(化外)」を区分する境界線を設定した前漢や後漢政権とは、明らかに一線を画しています。

換言すれば「朝貢」を発明したのは王莽とも言え、後漢が滅びて中世に入ると、「入植地の向こう側」への勢力拡大が中国側の基本姿勢となります。

但し、中世は「軍閥の誕生期」でもあり、つまりは群雄割拠=四分五裂の時代ですので、「向こう側」を服属させる(或いはその意思を実行に移す)ことが出来るのは、短期間でも統一政権が誕生するか、少なくとも「北半分統一政権」が誕生する必要があります。

そして軍閥の集合離散、「四分五裂」なのか「北半分統一」なのか「全国統一」なのかで、満州から朝鮮半島、そして倭を巻き込んだ「東アジア政局(外交)が展開されます。

(続く)
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by dokkyoan | 2012-09-14 23:16