「中世(或いは古代)」対「近代」 ~世紀の軋轢~

歴史を振り返る時、「古代→中世→近世→近代」と言う時代区分は決して誤りではありませんが、近代だけは厄介な代物で、とんでもない時代にひょっこり顔を出したりします。

近代の定義そのものが難しいのですが、例えばカエサル(シーザー)の時期の古代ローマ帝国は、控え目に言って近代的色彩が極めて濃厚で、ライン河に橋を架けて対岸の蛮族(ゲルマン民族)を驚かせた一件をみても、退化過程に入る前の古代ローマ帝国は優れて近代的です。

鎌倉幕府成立以降を中世とみる小誌の立場から言えば、織田信長が生まれて生きた時代(1534年~1582年)は、中世の分裂傾向がその極致に達した時代で、信長の属する織田家自身が、征夷大将軍(室町幕府将軍)の管領斯波氏の守護代の織田家の分家の家柄(だったと思う)と言う、下克上を体現した様な人物です。

征夷大将軍にしても授けられる官位はそれ程高くないのが通例で、天子との間には相当な距離がありました。


当時は公家、武家(武門)、寺家(寺門)からなる権門体制の崩壊過程にありましたが、崩壊し切っていない政治体制ほど被統治者を疲弊させるものはなく、発想は旧体制に縛られることになります。

ですから織田信長の存在が際立つ訳で、その存在が近代そのものです。


まず「天下布武」、すなわち武力による、そして武門による天下統一です。

次に楽市楽座、簡単に言えば既得権益の否定です。

兵農分離に伴い「誰でも武士(兵士)になれる」ことで、領民に武具と兵士と言う職業を与えました。

出自による立身出世の制限は羽柴秀吉や滝川一益の出現で否定されましたし、明智光秀の登用は余所者意識を払拭するに十分でした。


「中央集権志向」、「既得権益否定」、「兵農分離に伴う兵士と言う職業の領民への開放」、「出自に関係なく出世街道の開放」、「余所者登用=同胞意識の醸成」、これだけ近代的要素を備えた人物は近代でも稀です。


特筆すべきは「肉親愛、兄弟愛」で、家督簒奪を試みて己に刃向かった弟は消していますが、一向一揆に殺された弟に対する愛情は深く、後の長島一向一揆に対する「根絶やし」はこれに対する報復です。

当時は兄弟や親子ほど信頼出来ない者はなく、応仁の乱の導火線も「親兄弟との不和」でした。

信長は従順な者や抑圧された者に対して驚くほど優しい面があります。

その代わりに抑圧者=既得権益層に対しては容赦なしで、支配階級の全てを敵に回した感がありますが、それら抵抗勢力を打ち破ったのは、既得権益層に対して嫌悪感を抱く人々が負けず劣らず存在したことを物語っています。

ですから寺門は全て粛清対象、武門も征夷大将軍を頂点に置く古い思考の武家は全て敵、公家とは激突していないですが、宣旨を受けないと言う嫌がらせをしています。

(織田信長については同時代の世界情勢の中で論じるべきと思われますが、今は敢えて触れません)


本願寺は勅願寺です。

勅願寺と言うことは天皇(天子)の意向を尊重する傾向が強いです。

織田軍と石山本願寺との激突は、先に織田方が矢銭を要求したとはいえ、奇襲をかけたのは本願寺の方で、天皇(或いは治天の君)の意向をある程度知っておかなければ出来ない軍事行動です。

つまり本願寺側は朝廷が少なくとも好意的中立を堅持すると踏んだ訳で、その通りでした。


織田信長が挑んだもの、それは権門に象徴される中世と、その各々の権門が頂点に戴く朝廷と言う、古代すら携えていた「従来の日本そのもの」でした。

そして信長、豊臣秀吉、徳川家康と試行錯誤を続けた結果が、「中世に近代を放り込むのは無理があるので、近世まで時代を引き戻す」でした。

(続く)
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by dokkyoan | 2012-06-05 23:20