中国の近代「未遂」、日本の近代「既遂」

小誌も「北宋以前」と「北宋以降」の時代区分を採用していますが、北宋の成立を以って近世への移行と断ずるならば、中国はその後、地力で近代に突入する機会が訪れたのかと問われれば、小誌は「その機会は存在したが、地力での試行錯誤は死産に終わった」と答えたいです。


近代の特徴は「寛容と解放(開放)」、それを下地とした「同朋意識」にあると言うのが小誌持論です。

同時に「北宋以降」の中国の政治体制を、「形式上皇帝絶対主義、実質的宗族主権」と規定しています。

とすると「北宋以降」で「寛容と開放を通して同胞意識の醸成」を、意識的か否かは別として目指した時点で、中国は「近代への切符を手にする権利」を獲たことになります。

未だ近代の扉を叩くことが出来るかどうかの状況にある今の中国ですが、過去に大きな飛躍の好機が目前にまで迫っていました。


もうお分かりだと思いますが、「王安石の改革」です。


北宋建国(=近世成立)が960年、山川左翼欽定世界史教科書に従えば、1069年に「王安石の改革」が始まったことになりますが、この時代の中国からは実の多くの教訓を得ることが出来ます。

まず皇帝(神宗)と宰相(王安石)が全面協力して始めた改革にもかかわらず成功しなかったどころか、結果的にせよ後世に禍根を残したこと、換言すれば建国100年余りで宗族階級=官僚層=士大夫階層=大地主の既得権益は揺るぎ無い物になっていたと同時に、100年と言う期間は権力が腐敗するのに十分であることを物語っています。

次に諸策の詳説は省きますが、欽定教科書にも「農民や中小商工業者の生活安定と生産増加をはかりながら」とある様に、自作農と周辺商工業者に対し権力の門戸を開放する意図が明白であることから、「王安石の改革」は近代化への助走であったことがうかがい知れます。

同時に既得権益の一部譲渡である点でも「近代的」であり、これも欽定教科書から引用すれば「地主や大商人の利益をおさえて(中略)、反発する官僚たちも多く」と、既得権益と主権の存在場所を指し示してくれています。


中国の悲劇は「王安石の改革」が近代的色合いが濃厚であったにもかかわらず「革命」ではなかった点で、近代成立の必要条件「革命を経ること」を持ち合わせていなかったことにあります。

しかも「内部で国家権力を二分してはならない」と言う簡単な政治的命題を理解するのに多大な政治的損失(=新旧抗争とそれぞれの政府並立状態)を重ねた挙句、近代的要素の詰まった「王安石の改革」を全否定し、「(異民族支配型)近代大国」への道を選択してしまったがために、このままでは絶対に近代へたどり着けなくなりました。

小誌は「北宋以降(960年)」から「乾隆帝退位(上皇襲名、1795年)」までを「近世」とし、1975年から辛亥革命(1911年)までを「近世退化前期」、中華民国成立(1912年)から胡耀邦総書記就任(=文化大革命からの訣別、1982年)を「近代退化後期」、更に今(1912年)に至るまでを「最終試行期」と規定しています。

つまり最終試験を受けている最中で、これを逃せば近代は夢のまた夢です。


これに対し中世から一気に近代を目指したのが日本で、この「近代の予行演習」があったから「本番の革命=明治維新」も成功させることが出来ました。

小誌は元和偃武(1615年)を以って日本の近世の始まりとしてますが、それ以前に一時期、「近代」が人間として存在していました。

ご推察の通り、織田信長です。

(続く)
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by dokkyoan | 2012-06-02 00:38