蒋介石と張学良と、今川義元と徳川家康と

とある古書店にて先日、講談社「世界の歴史 ~中国の革命~」(市古宙三著)を100円にて購入、お値段もさることながら、岩村忍、林健太郎、堀米庸三(以前も以降も敬称略)と言った、誠に「香ばしい」山川出版社欽定教科書系歴史学者が企画委員として名を連ねています。

まだその前書きしか読んでいないのですが、前書きに西安事件が取り上げられていて、蒋介石を救ったのは他ならぬスターリンであることをあらためて理解すると共に、少なくとも1936年時点の中国人の歴史観が「近代以前=精々近世、下手をすれば中世」と言うことが確認出来た点で大変役立っています。

蒋介石が中国でも先進的な歴史観の持ち主かどうかは存じ上げませんが、仮にそうだとしても「五十歩百歩」、この時点の中国の認識力そのものが近代列強から遥かに遅れていると言わざるを得ません。


今川義元が後の徳川家康こと松平元康の所領を実質的に「属国化」した際、義元を戴く遠州衆及び駿河党に、三河の連中との間に同朋意識は有ったかと言えば、これが全くなかったから元康の所領に対する処遇は苛斂誅求を極めました。

三河の連中を根絶やしにして所領を広げることが目的でしたから、「寄る辺なき漂泊部隊」松平軍団は常に危険で消耗率の高い戦場に投入されました。

要は「降伏した仇敵は磨り潰して、残った所領は勝者が分け合う」と言うのが戦国時代までの「常識」で、同様の例は第二回の元寇で元王朝(=大元)が派遣した江南軍を挙げることが出来ます。

旧南宋の降将率いる部隊なぞ、そもそも信頼が置けませんし、消滅してくれた方が軍糧も装備も節約出来るからその方が有り難い、つまり捨て駒です。

蒋介石の張学良に対する扱いもその域を出ません。


元和偃武を評価すべき点は、その寛容さであり、歴史を紐解けば「清盛が源頼朝を赦したから平家は族滅の憂き目に遭った」ことは一目瞭然、歴史通の家康でしたら絶対その点を弁えていた筈ですが、それでも仇敵を赦したから薩摩も長州も生き延びることが許され、明治維新で敵討ちが出来ました。

織田信長も豊臣秀吉も近世を超えて近代的側面も多分に有する人物ですが、共通するのは寛容と「内需に頼らないこと」で、少なくとも日本が近代に跳躍するための必要条件を幾つか満たしてくれました。


北伐を終えて中国の中枢部分を抑えた蒋介石、それまで日本に対して宥和的だったのは北伐を邪魔されたくなかったからで、換言すれば「中枢部さえ握れば列強(特に日本に)に勝てる」と考えていた訳で、張学良に対する帰参工作が積極化するのは当然で、「焚き付けられた張学良が関東軍に勝利すればそれで良し、その時は子飼い部隊で張学良軍を叩きのめして満州地区を取り戻すし、相討ちになってもその時点で乗り込めば満州は国民党に帰する」と考えていたと思われます。

つまり蒋介石には「関東軍が張学良の軍閥集団に勝利出来ない」と言う前提と、「満州は国民党が回復する領土であり、如何なる結果が出ても張学良の私領にはさせない」と言う考えがあったと考えられます。

結局、北伐で得た「中枢部分」以外は満州も含めて「二級領土」で、この二級領土に対する蒋介石の見方は、後に重慶や台湾で如実に示されます。


対する関東軍、圧倒的不利と思われる状況下で、石原莞爾はマハンやクラウエウィッツと同じく「近代戦は装備や多寡で決するのではなく、軍事思想がその帰趨を決める」ことに気付いていました。

ですから蒋介石軍は米国の支援を得て近代化していましたが、その軍事思想は近代から程遠いものでした。

そのため満州を日本に奪われ、「寄る辺なき部隊」張学良が子飼いの軍団以外は何も持たず蒋介石に降ってきました。

蒋介石からすれば当てが外れたどころではなく、何故こんな羽目に陥ったのか「分からない」、阿片戦争以降、文化大革命が終息するまで、中国史を支配していた概念、それは何故こうなったのか「分からない」でした。

(続く)
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by dokkyoan | 2012-05-09 00:02