アグネス・スメドレー
2012年 01月 10日
スメドレー女史自身がその任にあったとは思えないのですが、大英帝国と中国共産党を結びつけた張本人は、この女性の周囲か背後にいると思われます。
(以下、概ねWikiからのパクリ)
貧困と才能とを併せ持って生まれたアグネス・スメドレー(1892年2月~1950年5月)は米国人です。
自由主義と資本主義の総本山の様に看做されている米国でも、社会主義者が大手を振って歩いていた時期がありまして、それは大恐慌(1929年)以降の数年間なのですが、それ以前にも米国経済は何度か深刻な不況に見舞われていて、社会主義を受け入れる土壌がありました。
スメドレー氏は遅くとも1920年代には左傾化していた様子で、1929年(つまり37歳前後)に自伝を書き上げると言う頓珍漢なことをしていますが、1930年に「魔都」上海に渡りあのゾルゲなどとも交友を深めています。
本人にその意識があったかどうか分りませんが、この女性には「出資者兼振付師」がいた筈で、その人物或いは集団に踊らされていたのではないかと言うのが小誌の根拠無き推測です。
女史自身は清貧であったそうですが、赤貧であろうが貪欲であろうが海外生活で物入りなのには変わりなく、渡航の段階で、ある程度の蓄えと現地での生活のメドが無ければ、行きたくとも行けません。
中国滞在中にフランクフルター・アルゲマイネとマンチェスター・ガーディアンに寄稿していたそうですから、やはり後援者はいたと考えられます。
埋葬されているのは北京、共産主義国家は埋葬場所まで「特級」(政府要人)、「一級」(革命的英雄階級=一級市民」、そして「二級」(その他)に分けていまして、旧ソ連で言えば失脚したフルシチョフの遺体が埋葬されたのは「二級墓地」です。
スメドレー女史が埋葬されているのは実は北京、仮に「一級墓地」以上で埋葬されているのであれば、中国共産党はこの女性に助けられた部分が少なからずあり、埋葬を以ってその恩に報いていると思われます。
赤狩りが最高潮に達した1950年、その対象になったスメドレー氏はイギリスの亡命、その日に死亡していますから、「口封じ」とみて差し支えないでしょう。
女史がどれだけ「英共合作」に関与していたかは不明ですが、英国と共産党中国にとって「有り難いけれど邪魔な存在」と化していたと推測されます。
英国で死んだ米国籍女性の遺体が北京に葬られている、礼節を重んじ、政治的にも英国での埋葬はまずいと考えた当時の中国共産党が、遺体の引取りを申し出てそれに英国が暗黙の了解を与えたと考えるのが自然と思われます。
この人物とその周辺は徹底的に洗う必要が有りそうです。
(続く)
(以下、概ねWikiからのパクリ)
貧困と才能とを併せ持って生まれたアグネス・スメドレー(1892年2月~1950年5月)は米国人です。
自由主義と資本主義の総本山の様に看做されている米国でも、社会主義者が大手を振って歩いていた時期がありまして、それは大恐慌(1929年)以降の数年間なのですが、それ以前にも米国経済は何度か深刻な不況に見舞われていて、社会主義を受け入れる土壌がありました。
スメドレー氏は遅くとも1920年代には左傾化していた様子で、1929年(つまり37歳前後)に自伝を書き上げると言う頓珍漢なことをしていますが、1930年に「魔都」上海に渡りあのゾルゲなどとも交友を深めています。
本人にその意識があったかどうか分りませんが、この女性には「出資者兼振付師」がいた筈で、その人物或いは集団に踊らされていたのではないかと言うのが小誌の根拠無き推測です。
女史自身は清貧であったそうですが、赤貧であろうが貪欲であろうが海外生活で物入りなのには変わりなく、渡航の段階で、ある程度の蓄えと現地での生活のメドが無ければ、行きたくとも行けません。
中国滞在中にフランクフルター・アルゲマイネとマンチェスター・ガーディアンに寄稿していたそうですから、やはり後援者はいたと考えられます。
埋葬されているのは北京、共産主義国家は埋葬場所まで「特級」(政府要人)、「一級」(革命的英雄階級=一級市民」、そして「二級」(その他)に分けていまして、旧ソ連で言えば失脚したフルシチョフの遺体が埋葬されたのは「二級墓地」です。
スメドレー女史が埋葬されているのは実は北京、仮に「一級墓地」以上で埋葬されているのであれば、中国共産党はこの女性に助けられた部分が少なからずあり、埋葬を以ってその恩に報いていると思われます。
赤狩りが最高潮に達した1950年、その対象になったスメドレー氏はイギリスの亡命、その日に死亡していますから、「口封じ」とみて差し支えないでしょう。
女史がどれだけ「英共合作」に関与していたかは不明ですが、英国と共産党中国にとって「有り難いけれど邪魔な存在」と化していたと推測されます。
英国で死んだ米国籍女性の遺体が北京に葬られている、礼節を重んじ、政治的にも英国での埋葬はまずいと考えた当時の中国共産党が、遺体の引取りを申し出てそれに英国が暗黙の了解を与えたと考えるのが自然と思われます。
この人物とその周辺は徹底的に洗う必要が有りそうです。
(続く)
by dokkyoan
| 2012-01-10 00:30