苦悩の果てにあるもの

日経に大変大雑把な棒グラフが載っていまして、「世界のGDPに占めるアジアのシェア」とのお題が付けられていますが、「アジア」の定義は兎も角、1950年と1980年の間の棒が最も低く、定規を引くと15%前後に相当します。

中間地点を取ると1965年、極東では高度成長期真っ盛りの日本が驀進し、石油ショックで中東に脚光が当たるのは少し先、インドは経済政策の失敗で低迷と言う状況でした。

他が横這いとして、日本の高度成長を帳消しにして余りあるもの、それは文化大革命しかありませんし、時期的にも一致します。

私見では、中国史の転換点は乾隆帝の治世で、「徽宗、万暦、乾隆」が小誌の考える「北宋以降中国史三大愚帝」ですが、乾隆帝以降の中国はずっと坂道を転がり続けたことになります。

例えば洋務運動が挫折するまでの小康状態もありましたが、概ね一貫しているのは歴史的節目に於ける政治的選択の誤りでした。


日本が鎖国を解いて開国に踏み切るに当たっては、あの時期しか無かったのは確かで、1851年に太平天国の乱が勃発し、清朝各地で権益を保有する大英帝国は日本どころの話でなくなっている、つまり喧嘩腰で日本に開国を迫ることの出来ない状況にあり、事実、ペリー来航の前年に大英帝国の使節が開国を求めて来日していますが、幕府は要求を蹴飛ばしています。

「出来るだけ弱い国(=米国)と可能な限り有利な条件で条約を締結し、次の瞬間に当時最強の列強(=大英帝国)と親密な関係を構築する」、これだけの曲芸を成し遂げた当時の幕閣が如何に有能で外交能力に長け、情報収集能力と危機管理の点でも優れていたか、この点は特筆すべきです。

ですから、次の歴史的事実を並べると江戸幕府の「偉業」が分ろうと言うものです。


1851年:太平天国の乱(~64年)

1853年:ペリー来航

1854年:日米和親条約

1858年:日米修好通商条約、アイグン条約、天津条約

1860年:北京条約


大英帝国が日本に手を出す余裕の無かったこの時期ほど、日中の運命を分った瞬間はありませんでした。

因みに1870年時点のアジアのGDP占有率は30%程度、一方は転落が続き、他方は考えられる最善の形で国難を切り抜けましたが、それでも国力は「雲泥の差」でした。

それが1965年には逆の「雲泥の差」になった理由は何処にあるのか、中国人はそこから反省すべきでしたし、それをおそらく最初に実感した中国要人は鄧小平でしょう。

(続く)
[PR]
by dokkyoan | 2011-09-25 00:53