ヘロヘロながら復帰

あんまり口実を作って怠けていると、今までの「成果(?)」すら帳消しになる様な気分になってしまいます。

何でこんな難しい問題に挑んでしまったのかと泣き言の一つの言いたくなりますが、泣き止んでから再び歩みを始めるのが、己に課せられた使命と信じて進む所存です。


自衛隊に72式戦車が配備された時、それを見たイスラエル陸軍将校は「完璧だ、完璧なおもちゃだ」と言い放ったそうです。

結果的にせよ、皮肉にもイスラエルが模範としたのは、ナチス・ドイツのブリッツ・クリーク(電撃戦)で、その最優等生であることは、1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)で遺憾なく証明されました。

ですから航空機と戦車の立体的運用の第一人者であるイスラエル将校の酷評は、日本の戦車製造思想に何か根本的に欠如しているものを、当人の直感が探り当てたからだと思われます。

日本人が戦車造りが下手、或いは戦車軽視の考えに傾くには、それなりの歴史的背景があります。

その証拠に、民生用を含めて航空機の開発には米国から今でも横槍が入りますし、艦船についても護衛艦(≒駆逐艦)までしか作らせて貰えません。

それに対して戦車はかなり早い時期から「純国産」、実戦を通じて日本の強みと弱点を知悉せざるを得なかった米国にしてみれば、太っ腹な態度ですが、裏を返せば「日本製戦車は古今大したことはない」と言っているのも同然です。

ここからはWikiのお世話になりますが、サイパン島失陥の後、日本海軍の硫黄島攻撃隊はサイパンの米軍基地を爆撃機で繰り返し叩いて、虎の子のB29を潰しています。(終戦直前でさえ、硫黄島~サイパン間の往復能力があったことになります、ガソリンさえあれば)

また硫黄島に迫った、航行中の米国艦船に対し、擂鉢山から砲撃して複数の標的に被弾させたのは、硫黄島の守備隊でした。

「日本人は貧弱な装備で戦った」と言う輩がいますが、軍装が貧弱か立派かは相手との兼ね合いで判断すべきもので、日清戦争に始まり、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変(日中戦争)、そして太平洋戦争に至るまで、質量両面で劣っていた戦いはあっても、両面で優位であった戦争はありません。

要は「戦車の存在意義が得心できない、何故必要なのか分からない」と言うのが大日本帝国陸軍の本音ではなかったのでしょうか。(実を言うと小誌もよく分からないのです)

その考えの背景には「見敵必殺」つまり異常なまでの命中率の高さがあります。

日清、日露の開戦で帝国海軍が勝利出来たのは、ひとえに巧みな用兵術と命中率の高さでした。

陸軍にしても敵艦隊の母港の後背地から山越しに艦船を狙い撃ちするという発想は、高い命中率あってのっものです。


ノモンハンでは最弱と言われた小笠原師団をソ連軍と対峙させるのですが、その小笠原師団の予想以上の善戦に業を煮やしたソビエト中央が戦車を含む重火器を大量に現地へ輸送し、そのために師団は壊滅状態に陥るのですが、その時関東軍中枢は、ソ連軍が調子に乗って追撃することを手ぐすね引いて待っていたそうです。

軍人は時に大言壮語しますが、その職務上の判断に嘘は混じりにくい職業です。

ですから敵主力装備の性能が判明した以上、進撃してきたソ連軍を叩きのめすのが可能かどうか、「誤算」は有り得ても「読み違い」はないと思われます。

ですから帝国日本軍の模倣すら出来なかった「重慶」君や「延安」君、今でも戦車の下手なら砲術も落第点、飛行機を飛ばすのも危うければ歩兵部隊に「吶喊攻撃」など期待できる筈もなく、日本が苦手な部分だけ忠実に継承しています。


日本敗戦後の国共内戦は、一種の「篭城戦」と考えるべきかも知れません。

延安を抜かれた紅軍はその背後の山岳地帯に「籠もり」ました、「篭城戦」ならぬ「籠山戦」です。

篭城戦で勝算があるとすれば、攻撃側にその城を抜くだけの戦力がない時、そして援軍が来て敵包囲軍を外巻きに逆包囲した時で、「籠山戦」では紅軍の方が補給に苦しみますから、国民党軍を後ろから刺す(複数)の存在が必要になります。

(続く)
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by dokkyoan | 2011-05-25 06:26