「食うか食われるか」の認識

明治時代の外務大臣陸奥宗光が著した「蹇蹇録」を読めば、日清戦争に際し大英帝国からの好意的中立を得るのにどれ程腐心しているか、翻って米国に対する態度は、まさに「あしらう」と言う表現がこれ以上に的確な事例もありません。

そして常に警戒を怠らないのが帝政ロシアで、ロシアの南下政策を極度に怖れていました。


以前にも触れましたが、ペリー来航にあたって幕府要人に突きつけられた課題は、

「平和裏の開国」
「内乱予防」
「列強の介入阻止」
「可能な限り有利な条件での条約締結」

でしたが、徳川幕府はこれらの課題を見事に克服し、権力を明治政府に渡します。

後を襲った明治政府も列強の介入を許すことなく内乱(西南戦争等)を鎮圧し、「富国強兵、殖産興業」を合言葉に、外交面では「不平等条約改定」を当面の目標に据えました。

但し、列強が言葉だけで改訂に応じる訳はないことを、当時の政府要人も知悉していましたから、それは「腕力=戦勝」でしか勝ち取れないと覚悟していましたし、事実、歴史はその認識が正しかったことを証明しました。


何故日本が生き延びることが出来たのか、ひいては今の繁栄を築くことが出来たのか、それは「列強が支配する時代は食うか食われるかの時代で、それ以外は存在しない」と認識していたからです。

対照的なのが当時の清朝(=大清)で、己より秀でた存在を夢想することすら出来ず、ましてや時代が食うか食われるかの選択を要請しているとは夢にも考えませんでした。

そのため、

「再度の列強との干戈」
「別の列強の介入」
「より苛酷な条約締結」
「内乱の予防失敗」

と言った事態を招くのですが、具体的には1851年に勃発した太平天国の乱を平定出来ぬままアロー戦争で再び英仏と干戈を交える愚を犯し、一方でロシアには黒竜江以北の地を奪われ(アイグン条約)、一度は天津条約(1858年)で矛を収めたものの、その後の清朝の不誠実な態度が戦争の再発に導き、1860年の北京条約で究極の不平等条約を強いられることになりました。

(続く)
[PR]
by dokkyoan | 2011-02-07 23:37