真の狙いは「日英修交」

1856年に締結された日米修好通商条約で日本側に不利な点と言えば、「関税自主権の喪失」と「治外法権」、これだけでした。

勿論、当時の世界の金銀比率が1対15なのに対し、国内比率は1対5、そのため大量の銀が流入して金が流出した結果、物価の高騰を招いたのは攘夷的意識を高揚させるに充分でした。

それでも当時の日本は出超でしたからまだ救いがあった訳で、阿片のために大入超に陥った清朝(=大清)に比べて遥かに幸運で、当時の中国からは際限なく銀が流出しました。


整理しますと日本が蒙った不利益は、

「関税自主権の喪失」

「治外法権」

これだけ。


対して阿片戦争に負けた清朝は南京条約だけで

「領土割譲」(香港のこと)
「賠償金の支払い」(2,100万$)
「5港開港及びそれらでの自由貿易」
「治外法権」
「片務的最恵国待遇」
「関税自主権喪失」
「英海軍の中国常駐」
「開港場での租借地取得の権利」

の八項目に加え、「阿片販売流通の事実上の黙認」と言う負荷を背負うことになりました。

対して日本社会には阿片が浸透しませんでした。

これは阿片戦争時もそうでしたが、米国は阿片等の「不道徳な取引」に消極的で、林則徐の命令に従って阿片を廃棄または持ち帰ったのも米国商人でした。

すなわち「阿片を使ってまで膏血を搾り取る」大英帝国の態度に最も不快感を感じていた「清潔漢」が米国で、先鞭をつけた米国の条件が気に食わないからと言って、大英帝国が駄々をこねるのも国際社会では出来ない相談です。

換言すれば、なるべく有利な条約を英国と結ぶことが当時の日本に課せられた義務で、そのための「楯」が実は米国でした。

しかし、やはり何と言っても当時の世界大国は大英帝国、有利な条件で条約さえ結べばこちらのもの、米国はご用済みです。

ですから次の瞬間から、交易相手も交渉相手も大英帝国に絞られます。

結果的に言えば米国は江戸幕府に一杯食わされ、内心抱いていた中国進出の野望を阻まれてしまいました。


そしてここが「日中の岐路」でした。

(続く)
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by dokkyoan | 2011-02-07 01:01