世を毒する言動、空疎な報道・社説・論説等に遠慮仮借なく鉄槌を下します。


by dokkyoan

火事場泥棒

第一次世界大戦は中国に於ける列強の支配力を弱める効果を果たしましたが、その空白につけ込んだのが我等が日本と米国でした。

しかも戦争の結果、ドイツとロシアが列強から脱落、大英帝国も疲弊が著しく、元気なのは日本と米国だけと言う状況が中国で出現しました。

米国が世界戦略らしきものを初めて描いたのは、第一次大戦が持久戦になることが分かった時点と思われ、中国に対しては資本投下と言う形でなされ、その受け皿が蒋介石と、浙江財閥に代表されるその周辺だったと思われます。

蒋介石が何故、北伐に打って出ることが出来たのか、その根拠地を中心に「ヒト、モノ、カネ」が充実したからで、背景には米国資本による工業化の進展が挙げられます。


大英帝国が軍事面であれこれと蒋介石の面倒を観たという説がありますが、それが仮に正しくても、租界や租借地を回収した瞬間から、それは有り得ません。

第一次世界大戦の最大の敗者、それは大英帝国で、「大英帝国を維持するには大英帝国が肥大化し過ぎた」現実が、戦争によって明らかになりました。

しかも時代は「海の覇者」から「陸の王者」の時代へ、これは蒸気船から鉄道(更には戦車)、軍事力で言えば「海主陸従」と言う、ある意味異様ですが植民地支配を可能にした軍事形態から、本来の戦争形態(つまり「陸主海従」)への回帰でもありました。(これがやがて「三次元の王者=超大国」の誕生へと繋がります)

中国に於いては、対戦前の完璧な「対中国列強包囲網」が崩れ、日米と言う「異邦人」が幅を利かす時代になりました。


話を北伐に戻しますが、北伐に際して蒋介石は日本に対し満州帝国の保全(=満州に於ける日本の利権承認)を確約していますが、これは当たり前の話で、北伐の目的が「租界や租借地回収=大英帝国の支配力低下」、「中国共産党放逐=米国は共産主義(社会主義)が大嫌い」、そして「生産性の高い国土中枢部分の確保」と「軍閥壊滅」にあるとすれば、これらは蒋介石の政治目標であると共に、米国の国益に沿うものであり、それを日本によってご破算にされては困るのです。(事実、日中戦争でその通りになりました)

小誌の定義では蒋介石は「小中華主義者」ですが、それは中国統一を諦めたことを意味する訳ではなく、事実、張作霖の馬鹿息子(名前失念)を焚き付けて満州全土に青天白日旗を翻させました。

小中華主義は漸進主義とも言い換えられる訳ですが、とすると中国共産党を含めた中小軍閥は「大中華主義」を唱えざるを得ず、しかも潜在的反米勢力の立場に置かれることになりました。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-12-13 01:14

陰謀説

小誌は陰謀説には与しません。

理由は簡単で、大は国家から小は個人に至るまで、相手を出し抜いたり味方を騙したり、嘘の情報を流したり、良からぬことを企てたりするのは当たり前の話で、陰謀なんて「日常茶飯事」、問題はその陰謀説に信憑性があるかどうかと言う点です。

失敗に終わったり陽の目をみなかった陰謀は多々あると思われ、それは決して歴史に限られたものではなく、個人だってあてはまる事柄で、八百屋の親父も大企業の営業も、安く仕入れて高く売りつける点では「陰謀を廻らせている」点では変わりなく、人生を振り返って陰謀を図ったことのない人はまず皆無と思われます。

ロックフェラーやロスチャイルドは今も世界制覇に向けて陰謀を逞しくしていると言うのが、一部の知識人の支配的な考えですが、それでは「米国最初の財閥」ヴァンダービルドはどうなのか、子孫も含めて皆がお人好しだったのか、要はロックフェラーやロスチャイルドの陰謀ばかりを、その著書で熱心に語る輩は、グゲンハイムもデュポンもアスターもメロンも知らないだけの話です。

せめてこの程度の「陰謀説=大法螺」を打ち上げて欲しいです、「第一次世界大戦は米国の陰謀で勃発した」。


第一次世界大戦が始まるまで、世界の主だった旨みのある部分を独占していたのは大英帝国でした。

インドは文字通り独占、中国は大き過ぎて独占出来ませんでしたが、列強が挙って中国分割に参加し、大英帝国はその中でも抜きん出た存在でした。

中国分割では列強の利害が一致、門戸開放政策を唱える異端児米国は仲間外れにされて何の恩恵もありませんでした。

つまり「全ての列強」対「米国」の構図で、話になりません。


第一次世界大戦に際し、同盟側と協商側で一致していた見解が「短期決戦」、この戦争はすぐに片がつくでした。

つまり普墺戦争や普仏戦争の様な戦争を両陣営共に想定していまして、勝つか負けるかは兎も角、クリスマスには終わっているとの見方が支配的、と言うより長期戦を連想したのはレーニンだけかも知れません。

「海の覇者」大英帝国が列強筆頭の位置を占めていたのは、鉄道が出現するまで、その鉄道を駆使してドイツ統一を成し遂げたのがプロイセンで、まず「陸の王者」として名乗りを挙げます。

ですが両陣営とも鉄道網が充実し切った段階では、鉄道に乗っている間は「高速重装備大兵団」であっても、一旦降りればただの歩兵、つまり「陸の王者」には誰でもなれた訳です。


米国の立場で陰謀を企てるのであれば、短期決戦か総力戦か、其処までは想いを廻らせることは不可能でも、早期終結が叶わないと見るや、宿願であった中国進出は企むのは当然で、其処に米国(資本)と蒋介石との「邂逅」が出現した訳です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-12-11 00:56

思わぬ突破口

話題があちこちに飛んで恐縮ですが、国共内戦を米英の代理戦争、中国共産党による全国統一を、米国を含む親米勢力の敗退、英国の利権死守の観点からみるべきではないかと、小誌なりに悩んでいたのはご存知の通りですが、圧倒的劣勢な共産党側が何故最後に勝利を掴むことが出来たのか、職業左翼に騙されるお気楽左翼であれば「人民が蜂起したから」と言うでしょうが、申し訳ないが小誌とその読者はそれ程「初心(うぶ)」ではありません。

そんなもので戦に勝てるのであれば、今頃大日本帝国は米国との「超大国の座を賭けた戦い」に勝利し、米州全体を呑み込んで、ついでに中印を傘下に収める「比類なき超大国」に飛躍しています、負けたからなりそこなったけど。

別紙の中国関係専門紙でミャンマー(当時の英領ビルマ)を考察しながら気付いたのですが、ビルマは中国にとって裏木戸で、その裏木戸の支配者が英国でした。


中国の雌雄を決する大戦後の国共内戦は、日本の敗戦直後から始まったのではなく、約10ヵ月後の1946年8月に再び矛を交えるに至りました。

ではその10ヶ月は如何にして両陣営は過ごしていたのかと言いますと、一言で表現すれば時間稼ぎです。


まず米国の事情から言えば、ペリュリュー島に始まり、サイパン、硫黄島、沖縄と続く戦いで、日本陸軍の思わぬ抵抗に遭遇し、人材と物資の両面で想像だにしなかった大きな痛手を蒙りました。

しかも絶妙の時期に「無条件降伏」、実はこれが「条件付き降伏」だったのですが、その点はあらためて触れるとして、無傷の部隊が各地で駐屯する日本を占領することになり、多くの人員や物資を日本に割かざるを得なくなりました。

米国が中国に関心があったのは、朝鮮半島南部を軍政下に置いたことからも明らかで、これは主力が存在する日本と、中国の間の制海権及び制空権確保のための措置に過ぎません。

しかしここで大きな問題が米軍に立ちはだかりました。

一つは日本を抱え込むことで駐留大部隊が逆包囲されました、「天皇問題」で。

日本政府は無条件降伏を受諾しましたが、大日本帝国臣民(当時)は天皇助命を願い出ました。

当時の日本の最高権力者たるマッカーサー元帥宛に、全国各地から署名捺印付きの書簡が、時には女性の名前で陸続と届きました。

願いは一つ「天皇助命」、この嘆願を蹴ったら、日本全土は間違いなく地獄と化したでしょう。

武装解除されたことと戦いの術を知っていることとは全く別の話で、その気になれば米軍の武器庫を破り、或いは民間人に成り済まして寝技に持ち込めば、後のベトナムなぞ天国にしかみえない地獄絵が出現したでしょう。

止めに天皇自らが元帥と会見、己を殺せと仰いましたが、その背後には「死を覚悟した数千万の大日本帝国臣民」が存在しました。

戦争では負けましたが政治で取り返した、日本人は決して政治音痴ではなく、正念場に強い国民と言えます。

しかもマッカーサー元帥に対しては、これは米国特有の現象ですが、絶えざる「兵士帰還圧力」が加わっていました。

つまり当時のGHQは、無数の潜在的敵対勢力に囲まれながら、しかもこれらに食糧を与えつつ、逐次部隊を米国に帰還させると言う、威張っているけれど実は日本の使いっ走りの様な役目を負わされましたから、とても中国に兵力を割く余裕がありませんでした。

そこで親米反英勢力の蒋介石国民党政権に現地のことは任せました。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-12-07 01:17
前々から気になっていたので、入稿再開を機にWikiで調べたのですが、所謂「広義の欧州(ヨーロッパ)」つまり東はウラル山脈以西のロシアから、西はアイスランドやグリーンランドも含めた欧州の総面積は1千万平方キロメートル、人口は7.3億人でした。

これに対し中国(中華人民共和国)は面積が960万平方キロメートル、推計人口は13.5億人です。

両者の違いは歴然としていまして、面積はほぼ同じなのに人口は中国が2倍、そして最大の相違は中国が「事実上の=細かいところは除く」統一国家であるのに対し、「広義の欧州」は45カ国が分立している点です(バチカンなんかも含めてですが)。

このことは何を意味しているのか、気候や利用可能な土地の比率も考慮すべきですが、特殊要因がない限り「統一国家は国家分立より優る」、これに尽きます。

統一国家は原則として内戦や叛乱がありません。

勿論、現実には発生しますが、国家が健全であれば早期鎮圧が可能ですし、平定するのに時間を要する様では先が見えたと言えましょう。

対して国家分立地帯では、それを一括りにしてみた場合、内乱と叛乱が常態化している訳で、繁栄をもたらすのは平和であることは戦後の日本が見事に立証しています。


欧州と中国を比較した場合、その歴史において大部分は中国の方が先行していました。

古代中華帝国に比すべきは古代ローマ帝国でしょうが、これは「古代地中海帝国」と呼ぶべき代物で、ゲルマン民族は遂に同化し得ませんでしたし、スラブ民族に至っては民族としての自覚があるかも怪しいのですから、民度と言う点で比較になりません。

それでも中国が幾度と無く分裂傾向を示しながらも統一国家を志向したのに対し、古代欧州はローマ帝国の崩壊以降、二度と統一を達成することが出来ませんでした。

中国は異民族と言えども同化すれば片っ端から漢民族扱いしますので、その点でも欧州と異なりますが、いずれにせよ古代から近世に至るまでの両者を比較すると、明らかに中国が優等生です。


ですが20世紀後半には見る影も無く落ちぶれた中国は、文化大革命で自殺寸前まで追い詰められました。

それに対し近代以降は欧州の独壇場と言っても良く、何故そうなったかと言えば「特殊要因」が常態化したからで、その特殊要因とは産業革命であり国民国家の形成でした。

それまでの中国は「質も量も周辺を圧倒」していましたから、例えば康熙帝は北辺に進出した(産業革命前の)ロシアに対し、圧倒的軍事力を以ってこれを撃退しました。

産業革命の意義は「隔絶した質の向上、それに伴う暴力性」が挙げられます。

「海の覇者」大英帝国が最盛期の清朝(=大清)と邂逅した時、清朝の人口は6億人前後だったそうです。

つまり大英帝国はインドを蚕食しつつ、6億人を擁する清朝と対峙した訳で、しかも連戦連勝、従来の概念の「質と量」を根底から崩す衝撃的な出来事でした。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-12-03 01:34

近々再開通宣言

お蔭様で公私共に一段落つき、精神的にも体力的にも再開に漕ぎ着けつつあります。

12月1日前後からの「開通」を予定しておりますので、誠に勝手ながらあらためてご愛顧を賜ります様、宜しくお願い申し上げます。

本誌筆者
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# by dokkyoan | 2011-11-26 10:34

ふと思うこと

これは以前に読者からご教示頂いた話ですが、交換留学生制度に来日する中国人学生にとって、日本は謂わば「腰掛け」に過ぎず、本命はカナダだと承った記憶があります。

確かにバンクーバーの人口の過半数近くは中国人ですし、同水準の人口構成になっている都市も、カナダ国内に少なからず存在すると思われます。

同胞が多数存在するうえに簡単に国籍が取得出来て、先住者の数が少なく国土が広いカナダは、移住にはうってつけと言えます。

でもカナダで暮らすことと日本に住むことのいずれが「幸せ」なのでしょうか。

入国者に対する方針が日本とカナダでは異なりますし、カナダの裏社会で財を成した中国人にとってカナダは天国でしょう。

でもそんな「成金中国人」にとってもカナダは日本以上の天国かとは言い切れないのではないか、そんな疑問が脳裡をよぎる訳です。


話は変わりますが、南朝鮮(=韓国、自称骨がらみの保守です)に亡命した脱北者にとって、韓国の生活で何が辛いかとの問いで、「生活苦」は首位ではなく二位で、最多回答は実は「韓国同胞による差別」だそうです。

つまり韓国人と言うのは「民族統一」(ところで南北両国はいずれも単一民族国家で、しかも例外なく両国全員が朝鮮民族なんでしょうね、他民族は端折られていますから)を声高に叫びながら、現実には生活苦よりも辛い差別意識をむき出しにして同胞を苦しめる、根本的に間違っているとは思いませんか。

「ウリ・ナラ=(拙訳では)何でもかんでも韓国が一番」と言う考え方は、他国や他民族等を見下す精神を植え付け、それは信じられない無礼や愚挙を相手に仕出かす原因になります。

小誌を含めて私見によると、「反日」は「公の場で口にしても殺害、迫害、捕縛されない唯一の政治用語」ですから、中国では全然「反日ではない反日運動」が起きたりします。

本音が別の所にあるのです。

今の中国、反日を忘れる程の「反韓感情」に溢れていると仄聞します。

理由は簡単で、中国人を馬鹿にして見下すから。

北朝鮮と対峙しながら、日本と中国から嫌われて、米国との関係もしっくりしない、この「似非」中華帝国は何処に行きたいのでしょうか。


これはあくまで感触ですが、近代に至るまで朝鮮人は中国人の真似をし続けましたが、本質的な部分で大きく違うのではないか、むしろ「中華帝国学校」の劣等生たる日本の方が、言語的には朝鮮語と似ているが心情的には中国に近いのではないか、そう思える時すらあります。


朝鮮の場合は「歪んだ宗族制度」なのでしょが、まず世界史とは部族社会から始まって如何様な展開を各地の各民族が示すのか、その実験でもあります。

カダフィが捕まらないのは所属部族が絶対的忠誠を誓っているからで、カダフィ大佐の属する部族は意外と広範囲に分布し、エジプトからの助っ人はエジプト政府の官憲が出国を阻止し、チュニジアで大佐の嫁さんが殺されないのも同族に保護されているから、南部のニジェールやマリにまで広がっています。

部族社会の住人にとって国境は、己にとって不利に設定されていても、障害物競走のハードル程度にしか考えていません。

有利なら守る、それが国境で、とりあえず有利なのがシリアです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-10-19 11:12

リビアとシリアと中国と

リビアでは反政府勢力が勝利したものの、カダフィ側勢力を一掃するどころか、「悪の張本人」カダフィ大佐本人すら捕縛できず、シリアではアサド政権の反政府勢力弾圧の勢いは一向に衰えそうにありません。

この事実を分析するうえで留意すべき両国の共通点は、イスラム教でも過去の植民地としての歴史でもなく、ましてやその中でも最弱の部類に属する仏伊を含めた列強(今では先進国と言います)の干渉でもなく、「部族」社会です。


リビアから検証しますと、宗教的対立は顕著ではないですが部族間差別が厳しく、しかも地縁と血縁が絡みますので、仮に最高権力者から近い順に「近衛部隊」、「親衛隊」、「国軍」と名付けますと、カダフィ大佐と同部族に属し、統一地域出身で血縁関係もある者で構成されているのが「近衛部隊」、それ以外の同じ部族者の集団が「親衛隊」、それ以外の寄せ集めが「国軍」で、部隊の装備も順を追って貧相なものになります。

仏伊を中心とするNATO軍が本格介入して以降もカダフィ政権側が戦局を有利に進めていたのは、「国軍」の装備では「近衛部隊」や「親衛隊」に太刀打ち出来ないからで、最新兵器を仏伊等が反政府側に大量供給して初めて攻守が入れ替わったのですが、それが事実とすれば武器の扱いに慣れていない反政府側の戦闘の主役は、フランスが誇る外人部隊か、カダフィ側も多くを募集していた傭兵に限られます。


珍しく中国以外の国を取り上げるかと言いますと、「兵器の操作は簡単ではない」のが鉄則で、複雑かつ殺傷力の強い武器ほど、高い技術の取得とそれに要する時間が求められます。(たとえ小銃とは言え、その壁を事実上取り払ったカラニシコフAK47の評価が高いのは同然ですが、紅軍にこの当時の最新兵器が渡っているとは考えづらいです)

ですから蒋介石本人は兎も角、浙江財閥や四大家族の少なからぬ部分は米国を手本にしていますから、兵器の国産化と言ってもそれは米国製の模倣と思われます。

重慶で逼塞している段階では、途切れがちにせよビルマ・ルート(援蒋ルート)で入ってきたのは英国製と米国製(但し前者が主と思われます)でしょうが、両者は比較的互換性が高かったのではないかと推測しています。

日本敗退後は米国の余剰兵器が国民党軍に流れ込んだでしょうから、蒋介石側は数量面でも操作性の面でも兵器の欠乏に悩まされることはなかったと思われます。

対する中国共産党、スターリンが国民党政府との条約を遵守して紅軍に軍需援助をしませんでしたから、扱い慣れているソ連製は終戦時点の在庫数量の域を出ず、全然足りないですから次に性能や操作性が分っている日本製の武器を求めて、敗退する日本軍を武装解除して身包み剥がす、革命軍と言うより追い剥ぎに似たことをしています。

国民党軍が中国共産党軍よりあらゆる点で優れていたのは、西安事件までの第一次国共内戦の推移を雄弁に物語っていますし、日本軍敗退後の10ヶ月間を経て内戦を再開した時点でも優劣は歴然としていたでしょう。

以上を総合すると、

「優勢な国民党軍の後ろ盾には米ソが控え」

「劣勢な紅軍を支援し得るのは英国のみ」

しかも英国の勢力が残っている香港、上海と、中国共産党の支配地域は隔絶していますから、これはもう「闇ルート」を使うしかないのですが、英国の選択肢は共産党だけではなく、残存する中小軍閥でも構いませんし、英国の要求を相手が呑んで履行遵守しないと意味がありません。


リビアやシリアは「縦型の情報閉鎖孤立型」部族社会であるのに対し、中国の宗族制度(氏族制度)は「横型の開放型」社会制度です。

ここに「突破口」があったのではないか、その突破口を作ったのは誰なのか、鍵はここにあります。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-10-18 00:39

日本人と蒋介石

根拠はなく、あくまで私見ですが、蒋介石の出自は余り良くないのではないか、少なくとも宗族階級ではないと思うことがあります。

蒋介石が宋美齢に求愛した際、女性の方から即座に断ったと言う俗説がありますが、少なくとも当時は中国女性に殿方の選択権はない筈で、縁談は父親が決めた筈です。

宋三姉妹の父親は浙江財閥の総帥、宋嘉樹は客家ですが出身は海南島、聖書を出版して儲けた人物らしく、息子は宋子文、この人物はハーバード大学に留学し、国民党政府では反日親米派と看做されていたらしく、不思議なことに蒋介石政権で首相格の行政部長に就任しているにもかかわらず、国民党政府の台湾「転進」の際には同行せず、香港経由で渡米しています。

生涯において台湾には短期滞在しただけで、「転進」後はひたすら米国に滞在、親米派と言うより米国べったりな人物です。

宋美齢も台湾の居心地が悪くなると渡米しましたし、所謂「四大家族」の中には、蒋家を除いて米国に骨を埋めたり、留学する人物が多く、蒋介石は日本を高く評価していた部分もあったらしいですが、当時の大英帝国からみて蒋介石の周辺には親米反英派が多数存在する、好ましくない集団としか映らなかったと思われます。

当時の国民党に限っても親米派と親日派は存在しますし、両国のいずれか或いはその双方に留学、滞在した人物も多数存在しますが、国民党内にも共産党にも地方の中小軍閥にも親英派は形成されませんでした。

第一次世界大戦以降も大英帝国が誇る「富の吸引装置」、上海と香港は健在でしたし、中国に深く食い込んでいましたから、(裏社会を中心に)親英勢力が存在した筈です。

しかし国共内戦の勝者は素寒貧の中国共産党で、その中国共産党を承認して台湾の中華民国を認めなかったのは英国で、その英国は香港を確保し、上海にもHSBCの支店(本店?)の存在が認められました。

太平洋戦争終了後から10ヶ月、国共内戦が再開した時点で国民党の勝利を疑った者は少なかったと思われます。

それが2年後には、蒋介石は敗北の可能性を悟り始めます。

この「大逆転劇」を演じた中国共産党と英国の主役を探る必要が出てきそうです。

以前にもご指摘がありましたが、英国はロスチャイルドの誰かとその周辺でしょう。

中国共産党にそれだけの切れ者が居たか、そこが問題です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-10-12 01:30

明治維新の特異性

再録しますが清朝(=大清)滅亡以前の中国の社会構造は次の通りでした。

皇帝(=名目上絶対権力者)

官僚(宗族階級=実質的国家主権保有集団)

胥吏 + 軍人

庶民(農民) (+ 裏社会)


これが「受け皿なき革命」こと辛亥革命によって、皇帝の部分が空席になり、しかも誰も受け皿となるだけの器量も見識も持たぬ連中しか、政治の舞台には残っていませんでした。

しかも科挙の廃止により宗族階級(士大夫層)は階級としての裏付けを失い、代わって洋務運動の残党つまり軍閥が保有する銃と、列強から借金してまで購入した兵器で武装した連中が浮上し、同時に国家としての抑えが利かなくなったことで裏階級社会にも政治への干渉の機会が与えられることになりました。


つまり横一線とは言いかねますが、宗族階級、軍閥、裏社会による「空席争奪戦」が始まったことになり、まず武力を持っている者が先行しますから、軍閥による群雄割拠=究極の無政府状態寸前から中国の「近代史」は始まります。

皮肉なことに軍を維持するには幕僚、もっと言えば官僚を必要としますが、官僚組織を形成し得るのは宗族階級ですが、形の上だけでも束ねる存在が「空席」と言う未知の境遇で打って出ることは出来ません。

それに先立つ物がありません。

当時(厳密にはもう少し遅れて)中国に出現したのが買弁資本で、中国では評判が悪いですが、資金も無ければ技術も人材もないのですから、明治維新の真似をしなければ借金しかありません。

ですが列強、殊に大英帝国が気前良く金を貸す訳がなく、手先を通じて吸い付くせる物は取り込んだでしょうから、極端に言えば中国全土の富は上海に集まることになります。

その富の集積の役目を担ったのが裏社会であり、永らく中国史から疎外され続けた客家と思われます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-09-30 05:20

ご維新? ご一新?

日本人もその殆どが誤解していますから、当時も含めて中国人や朝鮮人に分れと言うのが酷なのですが、明治維新と大政奉還、五箇条のご誓文、更には士族の叛乱を如何に解釈するべきか、日本史上最大の転換点にもかかわらず理解が極めて浅いと言わざるを得ません。

こんなに面白い「革命」はありません。

明治維新と言えば「薩長土肥」ですが、維新で最も「割を食った」のが他ならぬこの四藩です。

これは現在の鹿児島、山口、高知、佐賀県をみれば理解出来ますが、維新の恩恵に浴したどころか、何の特権も与えられず、その事実に逸早く感づいていたことは、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争と明治政府に対して武力で「反革命」を企てている事実から明らかですし、残る土佐は自由民権運動と牙城となって新政府を悩ませます。

つまり「支配者層」を形成すべき集団が、「四民平等」は良しとしても何で賊軍と同じ待遇なのか、何のために父親や夫や息子や兄弟は死んだのか、当たり前ですが「勝者の報酬」を求め、その要求に応じるのが政治と言うものです、「ユークリッド世界」では。


これ程の「嘘つき革命」はありません。

尊皇攘夷を唱えながら政権を奪取するや、否、その前から開国路線に転換し、尊皇と言いながらその実体は「象徴天皇の雛形」で、明治天皇は「畏れ多き向き」であっても絶対君主では有りませんでした。

日清戦争では明治天皇が嫌だと言っているのに大本営を設置しますし、形式上は天皇親政であっても現実には「元勲主権」でした。

薩長土肥を初めとするが討幕派が一杯食わされたのは上述の通り、むしろ(福岡藩を含めて)密貿易で潤っていただけに地域経済の打撃は深刻で、維新の元勲達は密貿易の旨みを知らぬ筈がありませんから、出身藩を最初から裏切るつもりでいたことになります。

騙された側の怒りは凄まじく、戊辰戦争の戦死者が官賊合わせて八千人余りなのに対し、西南戦争の死傷者は政府軍だけで1万5,000名、兵器の進歩を考慮しても明治維新そのものが極めて「宥和的革命」であったことが理解出来ます。


明治維新は「八百長」ではなかったのか、少なくとも「合議の上での革命」ではなかったのか、その背後にあるのは「逆算」つまり「近代化への残された時間」だったのではないか、この点で明治維新は出色ではないか、そう考えるに至りつつあります。

討幕派が佐幕派を虐殺し乱暴し奴隷身分に落とす、やれば出来たでしょうが新政府側は他の政変や革命とは異なり、皆無と言って良い程にしませんでした。(それでも会津の長州に対する「遺恨」は残りました)

官軍の連中全てが「新思想」の洗礼を受けていた筈もありませんから、そうなってもおかしくは無い、むしろそうならないとおかしいのですが、現実は全く逆でした。

政府軍の「平等ぶり」は徹底していて、故郷常陸の国に還りたいと言う秋田藩の願いを一蹴、当時の「お家」の概念の根強さと、「お家」を蹴飛ばす維新思想の先鋭な対立が見て取れます。

それにしても、どう説明すればよいのでしょうか、外国人に対して明治維新を。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-09-27 03:54

苦悩の果てにあるもの

日経に大変大雑把な棒グラフが載っていまして、「世界のGDPに占めるアジアのシェア」とのお題が付けられていますが、「アジア」の定義は兎も角、1950年と1980年の間の棒が最も低く、定規を引くと15%前後に相当します。

中間地点を取ると1965年、極東では高度成長期真っ盛りの日本が驀進し、石油ショックで中東に脚光が当たるのは少し先、インドは経済政策の失敗で低迷と言う状況でした。

他が横這いとして、日本の高度成長を帳消しにして余りあるもの、それは文化大革命しかありませんし、時期的にも一致します。

私見では、中国史の転換点は乾隆帝の治世で、「徽宗、万暦、乾隆」が小誌の考える「北宋以降中国史三大愚帝」ですが、乾隆帝以降の中国はずっと坂道を転がり続けたことになります。

例えば洋務運動が挫折するまでの小康状態もありましたが、概ね一貫しているのは歴史的節目に於ける政治的選択の誤りでした。


日本が鎖国を解いて開国に踏み切るに当たっては、あの時期しか無かったのは確かで、1851年に太平天国の乱が勃発し、清朝各地で権益を保有する大英帝国は日本どころの話でなくなっている、つまり喧嘩腰で日本に開国を迫ることの出来ない状況にあり、事実、ペリー来航の前年に大英帝国の使節が開国を求めて来日していますが、幕府は要求を蹴飛ばしています。

「出来るだけ弱い国(=米国)と可能な限り有利な条件で条約を締結し、次の瞬間に当時最強の列強(=大英帝国)と親密な関係を構築する」、これだけの曲芸を成し遂げた当時の幕閣が如何に有能で外交能力に長け、情報収集能力と危機管理の点でも優れていたか、この点は特筆すべきです。

ですから、次の歴史的事実を並べると江戸幕府の「偉業」が分ろうと言うものです。


1851年:太平天国の乱(~64年)

1853年:ペリー来航

1854年:日米和親条約

1858年:日米修好通商条約、アイグン条約、天津条約

1860年:北京条約


大英帝国が日本に手を出す余裕の無かったこの時期ほど、日中の運命を分った瞬間はありませんでした。

因みに1870年時点のアジアのGDP占有率は30%程度、一方は転落が続き、他方は考えられる最善の形で国難を切り抜けましたが、それでも国力は「雲泥の差」でした。

それが1965年には逆の「雲泥の差」になった理由は何処にあるのか、中国人はそこから反省すべきでしたし、それをおそらく最初に実感した中国要人は鄧小平でしょう。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-09-25 00:53

ひ弱なインテリ

ひ弱と言えばインテリ(知識層)、インテリと言えばひ弱と言うのが通り相場ですが、日本の場合は該当する個人に対する誹謗中傷に過ぎないのに対し、中国では生死に関わります。

辛亥革命前後、少数の例外を除き、インテリと言えば旧宗族階級出身者でした。

かつての宗族の多くは地主階級で、郊外の私有地(≒農地)には代理人を派遣し、本人や家族はその地方の主だった都市に住み、「花鳥風月」を嗜む文化人でした。

そして「北宋以降」の文民統治体制の確立により、軍事力(私兵)を大量に手元に置くことは止め、それらと分離する様になりました。

文民統治が成功したのは、財政権を宗族階級つまり官僚層が握ったからと言われていますが、実質的に統帥権を皇帝から奪ったからです。

ただ文民統治は軍部を黙らせるだけの補給や俸給の確保、人事権の掌握が必要ですが、それを裏付けていたのが皇帝の「絶対的権力」と言う幻想でした。

官僚に逆らえば皇帝への反逆になると言う大義名分で抑圧することになります。

その前提として皇帝が絶対的存在に祀り上げられながらも、実質的主権を官僚層=宗族階級に委任する必要がありますが、それ以前に皇帝が必要になります、権力の源泉がそれですから。

従って皇帝が存在しない中国は権力の源泉が無数に細分化されるおそれがあり、その点で権力の受け皿を用意しないまま「発生」した辛亥革命以降の中国は、「北宋以前」殊に後漢滅亡以降の中国に似ています。

すなわち、北宋以降清朝以前の中国人の理想の統治形態が、


皇帝

官僚(宗族階級)

胥吏 + 軍人

庶民(農民) (+ 裏社会)


であるとすれば、共産中国の統治形態は次の様になります。


(敢えて秘す)

中国共産党(劉少奇、旧宗族階級)

国務院(周恩来、胥吏階層) + 人民解放軍(彭徳懐他)

人民 (+ 裏社会)


この最上部に入れる人物を間違えました。

軍事力を持たない「ひ弱な」インテリは、平時でこそその手腕を発揮出来ますが、非常時には銃剣の扱いになれた者が重宝され、技術者は兎も角、文科系(=儒学)の学識や教養は二の次です。

結党当時の中国共産党の「ひ弱さ」を考察すべきです。

尚、蒋介石の「間違い」が何処にあるか、これも上述の政治形態から説明出来ます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-08-20 02:38

宿題の整理

小誌が自らに課しながら放擲している宿題を纏めると、おおよそ次の通りになります。

1)「寄り合い所帯」中国共産党の結党段階の構成比及び勢力図、

2)中央集権と地方分権

3)受け皿作りの模索

4)蒋介石敗北の理由

などなどですが、中国共産党結党時の中国本土における政治形態を分類すると次の様になるのではと考えられます。


1)群雄割拠(軍閥)型
今でも存在しそうな政治形態で、「半ば独立国」みたいな地域は中国史上、何時の世にもありました。
清朝(=大清)滅亡後、特に袁世凱死亡後の分裂国家状態は最も成立し易い政治体制でしたが、同時に最も不幸で不安定な選択肢でした。
潰し易いが成立し易いと言うことは、無限に細分化する可能性があり、全く利益をもたらさない合従連衡が繰り返されることを意味します。
残念なことに、中国の政治形態の原型は今も昔もここに置かねばなりません。

2)「蒋介石」型
地元意識が強い点では軍閥と同じですが、強力な軍事力、工業力、政治力、統治能力を兼ね備えている点で有象無象の軍閥とかけ離れていますし、天下統一を視野に入れている点で遥かに進化しています。
ですが凡百の軍閥にとって蒋介石の象徴は死活問題ですし、蒋介石の思想を突き詰めれば「共和制の衣を着た、日本型中央集権制度を取り入れた、皇帝政治の復活」に逢着します。
そして軍事面では全ての軍閥、政治面では全ての宗族階級、そして地元意識の強さは中国のその他の地域全てを敵に回すことになりますが、蒋介石はそれでも勝てると踏んでいたと思われ、要は「反蒋介石統一戦線」の結成は不可能と考えていたのでしょう。

3)中国共産党型
敢えて「毛沢東」型と表記しなかったのは、毛沢東を「お飾り」とみるか、卓越した指導者とみるかでその後の歴史に対する見方が一変するからです。
まず当初の共産党は軍閥に毛の生えた存在に過ぎず、しかも弱小集団にもかかわらず寄り合い所帯と言う、誠に頼りない政治集団でした。
ただ寄り合い所帯の唯一の長所は「各階層総参加型」政党になること、つまり全ての階級に「渡り」を付けることが出来ます。
それから「中央集権なんて夢のまた夢」であったこと、軍事的には軍閥に生存の余地を与えた点が大きいと思われます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-08-17 01:27
小誌が追究し解明を試みている問題が複雑にして大き過ぎて、手に負えないと思いつつも喰らいついているのが実情です。


あれ程の繁栄を誇った中華帝国が転落を始めるのは、私見では清朝乾隆帝の治世、皇帝本人がおそらく阿片中毒になってからのことです。

嘉慶帝を初めとするその後の清朝皇帝の政治課題の筆頭は、常に阿片駆逐(或いは容認)でした。

その阿片を梃子に中国と言う「汲めども尽きぬ富の塊」を最初に蚕食したのがご存知「海の覇者」大英帝国、セポイの乱(最近ではインド大反乱とかシバーヒーの乱と言うそうですが、小誌の与り知らぬ所です)を契機にムガール王朝を滅ぼしてインドを手中に収め、ほぼ同時期の1860年に北京条約が締結され大英帝国による本格的侵略が始まりました。

没落と言う名の下り坂を転げ落ちた挙句、清朝は1912年に滅亡しますが、この時点でも中国は列強からみれば垂涎の的で、その後は一応、中華民国を名乗りますがまさに名ばかり、群雄割拠の時代に突入しますが、それでも少なくとも日本にとって中国は「宝の山」の存在で、張作霖を謀殺した挙句に満州地区を我が物とし(1931年)、更に1937年の段階でも中国本土主要部を軍事占領し、大英帝国の利権を覆してまで生存圏の確保を図りました。

その中国、1945年時点において「旨みのある」場所だったのか、その答は「三者三様」です。

後の北朝鮮に橋頭堡を築いたソ連は、蒋介石との取り決めを忠実に護り、速やかに兵力を引き上げました、そのお蔭で旧満州帝国の地域は「往復ビンタ」を喰らう羽目になりましたが。

スターリンの答は「魅力なし」、コミンテルンに忠実な組織も存在しませんから、スターリン流の「赤化(紅化?)」の段取りが立たない以上、貴重な軍事力はより重要な地域に回すべきです。

あれ程「門戸開放」を叫んでいた米国も、おそらく対日戦争で相当疲弊したのでしょう、結果的に(朝鮮戦争勃発までは)日本に居座る格好になりました。

面白いことに、米国は欧州戦線からさっさと兵力を引き揚げ、そのためにドゴールが徒手空拳でソ連を恫喝して侵略を食い止めましたが、日本にはGHQが置かれて相当数の兵力が日本と南朝鮮に駐屯することになりました。

案ずるに、太平洋戦争末期の特に陸軍の善戦が、米軍首脳をしてまず日本を完全に抑え込んでから朝鮮半島を踏み台に中国に足場を築く算段だったのではないか、とすると国民党政権に対する支援は「ヒト」を欠いた「モノ、カネ」に限定されます。

最も割を食った英国にとって、租界及び租借地回収を断行した蒋介石とは組めません。

終戦直後に香港を取り返し、上海でHSBCが踏み止まっていたのは奇跡としか言い様がありません。

英国にとって中国は「まだ旨みのある存在」と言うことになりますが、取引をするのは蒋介石以外の人物でなければならず、と言って手を拱いていては蒋介石が統一を果たしていたと思われます。

翻って中国国内で「英国利権」を認める政治集団が存在するのか、しかも米国に「門戸閉鎖」する反米政権、これだけの条件を満たす勢力でないと英国も話し合いが出来ません。

この「英国利権を認める共産主義国家」、この概念を「発明」したのは誰か、小誌の放浪の旅はまだ続きます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-08-13 02:41
Wikiによれば、中国共産党の創設者(2011年7月)は次の通り。(コミンテルン顧問を除く)

出席者:

上海代表:李漢俊(東京帝国大学出身)、李達(東京帝国大学出身)
広東代表:陳公博、包惠生
北京代表:張国燾、劉仁静
武漢代表:陳潭秋、董必武(日本大学出身)
長沙代表:毛沢東、何叔衡
済南代表:鄧恩銘、王尽美
留日代表:周仏海(京都帝国大学出身) !

欠席者:

陳独秀(成城学校出身)、譚平山・・・広州在住

李大釗(早稲田大学出身)・・・北京在住

沈玄廬(日本留学組)・・・モスクワにおり、

邵力子・・・上海(病臥)


後世から観れば「錚々たる人材」とでも称すべきでしょうが、その時に決まった執行部の陣容は次の通り。

委員長 陳独秀
副委員長 周仏海
組織部長 張国燾
宣伝部長 李達
広東特派員 包惠生
長江特派員 周仏海
日本特派員 張太雷
北方特派員 劉仁静

結党時の党員としては、上述の出世者、欠席者を含めて50数名らしく、その中には周恩来も名を連ねていますし、後に「漢奸」の代名詞とされる周仏海の副委員長に食い込んでいるのが面白いです。

この内、特に日本への留学組の影響力の強さを考えると、「中国共産党は大日本帝国が作った」と言っても差し障りがないのではないかとさえ思えてきます。

それから初期の共産党は知識人集団であること、逆に言えば腕力の面で心許ない連中ばかりで、例外は毛沢東、共産主義理解において度外れて間違っていたことが後の人生に大きな影響が与えます。


ところで中国共産党とは別に、遅くとも1920年の段階で中国共産主義青年団(共青団)の前身(?)、中国社会主義青年団が結成され、劉少奇は同年入団しています。

こちらの初期の顔触れは不明ですが、共青団が党に吸収されるのは少し後ですから、両者は並立していたことになります。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-07-31 13:26

少し周恩来に寄り道

周恩来に就いては、黄埔軍官学校に在籍した事実が過大評価されている感があります。

政治部副主任(主任級は国民党が独占)として同校に籍を置いていたのは事実ですが、それまでに軍歴はなく、軍務に精通していないけれど政治部と言う難しい部署をこなせる人材と言えば、周恩来以外に数少なかったと言えます。

因みに共産党系の教務部副主任は葉剣英、それからこれは国民党側ですが政治部主任はあの戴季陶、毛沢東は面接の試験官で、この時代の毛沢東は「その他大勢」の一人です。

ですから当たり前ですが、周恩来の活躍の場は外交を含め「民政」に限られます。

従って「国務院総理」を長年務めたのも、ある意味首肯出来る訳で、裏を返せば生涯、統帥権には口出ししなかったことになります。


中ソ論争たけなわの頃、周恩来がフルシチョフと会談した際、フルシチョフは周恩来のことを「ブルジョア出身」となじったのに対し、周恩来はプロレタリア出身のフルシチョフに対してその事実を認めつつ、唯一の共通点として「出身階級を裏切ったこと」を挙げて反論しました。

スターリン時代に比べてソ連の共産主義が退歩していると断ぜざるを得ないのは、定義に従って機械的に考えている点で、グルジア人と北オセチア人の「混血児」であるスターリンからすれば、「共産主義者=ソ連人」の見本が本人で、全てのソ連国民は「スターリン化」すべきで、民族は勿論、階級すら頭から認めていません。

周恩来の生家は胥吏階層の「名家中の名家」ですが、この中国では同一宗族の中に「ブルジョア」もいれば「プロレタリア」も存在しますので、そのまま共産主義革命を当てはめれば「同族抹殺」を引き起こしますのでそれは受け入れられない、対するに帝政ロシアは名前を聞いただけでユダヤ・ゲットーに住んでいるか、解放農奴出身か、はたまた貴族なのか即断できますし、中国が同一宗族内で「ピンからキリまで」存在するのに対し、帝政ロシアは一握りの「ピンからピンまで」とその他大勢の「キリからキリまで」で構成されていました。

国務院は中国共産党の指導を受けますから、その関係は上官(宗族階級)と胥吏の関係に似ています。

小誌が国務院は胥吏の「縄張り」と考えるのも、清朝末期から軍閥の時代を経て維持された数少ない統治機構がこの「胥吏による被支配層の統治」だったと考えられるからです。


前回、共産党中国の最高権力者を「本命」か否かで分類出来ると弊意申し上げましたが、これを当てはめると次の様になります。


毛沢東:
本人は「建国の父」と勘違い、「聖人」と勘違いしている面も。
中国共産党でも軍閥出身を除いて唯一共産主義を「誤読」。
支持基盤は獣の様な私兵と裏社会の構成員と初心な農民層。



劉少奇:
毛沢東には「名誉」を与えて実務と実権を牛耳るつもりであった共産党上層部の代表的存在。
都市を地盤とする傾向がある。
そして「お飾り」毛沢東をその支持基盤と共に政治の舞台から退場させた後を襲うべき「本命」であった



毛沢東:
駆逐されてはたまらない支持基盤が文化大革命を起して奪権闘争に成功、毛沢東本人も己が「招かざる共産主義者」であることを理解、それを逆手にとって己を神聖化、本命を超える「皇帝」崇拝の真似事を始める。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-07-13 01:52
中国ではしばしば「長老(元老)政治の弊害」が指摘されますが、何時の世でも元老達が政治の実権を牛耳っているかと言えばそうではなく、今の胡錦濤体制をみる限り、表舞台は全て胡国家主席に任せている感があります。

ですが江沢民氏が軍の実権を手放そうとしなかった時に、同氏を徹底的に糾弾して辞めさせたのは当時の長老(具体的には誰か存じ上げません)との説があります。


中国の元老(長老)を語る場合、まず考えねばならないのは「何故表舞台に立つ必要があるのか」と言う点です。

元老と言おうが長老と言おうが、分かりやすく言えば「功成り名を遂げたご隠居さん」で、厚遇されますしその声には一定の配慮がなされますが、ご隠居さんが表舞台に再登場するにはそれなりの理由があります。

それは何かを考える前に、共産中国建国以来の最高権力者が「本命」なのか否か、これを判別する必要があると思われます。

この問題は、毛沢東は「本命」だったのか、それとも周囲は「繋ぎ役」乃至は「象徴(飾り物)」に過ぎないと考えていたかと言う疑問に逢着します。

そして結論は、「自分は絶対的に抜きん出ている」と自惚れる毛沢東と、共産主義中国建国に導いたその珍妙な発想と後ろ盾となる勢力に敬意を表して、暫くは「お飾り」として平時になるまでの「繋ぎ役」を担って貰おうと言う、極論すれば毛沢東以外の全ての中国共産党幹部とのすれ違いが、現代中国の悲劇の原点ではないか、そう言う見解に達します。


八大元老(八老)が活躍を始めたのを1987年、胡耀邦総書記(故人)失脚後とすれば、「先代本命(胡耀邦)」から「当代本命(胡錦濤国家主席)」への橋渡し期間が、江沢民時代を含めた元老政治の時代であり役割であったと言えます。

弊意申し上げれば、本命は劉少奇、胡耀邦、胡錦濤、「勘違い」が我等が毛沢東、毛沢東に繋がる既得権益派(守旧派)の一例が江沢民、1987年から2003年(胡錦濤国家主席)の「空白期間」の内、1997年までは鄧小平が仕切り(陳雲は95年に死亡)、残りの6年を江沢民は栄耀栄華を誇ったことになります。

そして江沢民と言う政治家が如何に「異形の人物」であったことは、その「任期のずれ」が物語っています。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-07-09 02:06

世界の中心で愛を叫ぶ?

示唆に富んだお便り拝読、小誌の存在意義が無くなるのではと思えるほどの高水準の内容を開示して頂き、心より感謝申し上げますが、ご卓見と弊意の「ずれ」が歴史の真相を浮き彫りにすることも有り得るかと思い、敢えて「独走」する次第です。


国共内戦が再開するや、中国共産党の根拠地延安はたちまち抜かれ、更に奥地へと後退した際、「世界の最僻地で中華(=大中華主義=共産主義革命)を叫んで」いたのは、極論すれば毛沢東一人だったでしょう。

ですがその二年後(1948年秋)には、蒋介石が敗北の可能性に想いを巡らせるに至りましたが、その2年間に何があったか、少なくとも「米ソによる共産党への援助」は無く、「蒋介石に対する英国の憎悪」は有りました。

それから紅軍の兵力には上限がありました。

国民党軍が故郷を追われた「流浪集団」であるのに対し、共産党は故郷が無い「居候兵隊」でした。

ですから故郷南京(そして浙江省)恋しい国民党と蒋介石は、重慶では自分達が余所者であることを自覚すると共に、たとえ「小中華主義」に基づく全土統一にせよ、なすべきは自分達と言う自負がありますから、現地人から食糧と物資、資材を徴収しながら、一方で日本軍による「重慶絨毯爆撃」の楯にして軍団の戦力保全に全力を注ぎました。

ですから蒋介石軍は「兵力、装備、士気」共に盛んなのですが、一種の郷土軍、歴史用語を使えば「郷勇」と言うことになるのでしょうか、その精神構造は太平天国の乱の際の李鴻章とさして異ならないと思われます。

従って蒋介石が天下統一を果たした暁には、郷土と余所者でも特に貢献した集団が「特級国民」、中立地域が「一級国民」、共産党や弱小軍閥と関わりのある地域出身者は「二級国民」に分類されたと思われ、台湾に於ける外省人による本省人支配は、これの出来損ない以外の何物でもありません。

ですから国民党軍は団結力が強く、装備の近代化も当時の中国では最も進み、兵力の規模も大きかったのですが、搾取された挙句に矢玉の楯代わりにされた重慶の住民を初め、ほぼ中国全土が潜在的敵対勢力です。

ただ内紛や内戦において「武器無き敵意」は無に等しく、これを裏返せば「革命は銃口から生まれる」となります。


対する「居候」共産党、長征なんて偉そうなことを言っていますが、あれは指名手配犯の逃走みたいなもので、あちこちの伝手をたどってその場その場の厚意を得て逃げ惑う姿です。

この場合、共産党より受け入れ側の方が強力で主導権を持っていますので、居候としては強く言えません。

「1万人なら半年食わしてやる」と言われれば、手持ちの兵力が1万5,000人の場合、残りの5,000人は「血路を拓く」か「粛清」するしかありません。

そしてその半年が終わるまでに次の居候先を探すか、蒋介石軍が攻めてきたら再び逃亡生活が始まります。

その中国共産党と弱小軍閥の連携も有り得たでしょうが、軍閥の存在意義は、下は「己の食い扶持を確保する」から、上は「腕力で支配して夢にまでみた栄耀栄華を実現すること」で、体質的に共産主義は受け入れ辛いです。

そもそも腕力で問題の解決を図るのが軍閥の体質ですから、共産党を「寄り合い所帯」の盟主として認める理由はありません。


日本が敗れた時点で、蒋介石は敵対勢力が、

「中国共産党」(延安)
「各地の弱小軍閥」
「租借地、租界を奪われたことで遺恨が生じた英国」(上海、香港)
「租界、租借地の撤廃に伴い利権が消滅した裏社会勢力」(上海、香港他)

であること、これらが手を結ぶ可能性のあること、そして纏めて叩きのめす自信もあったでしょう。


今、ここに幾つかの補助線を引きたいと思います。

一つはご指摘頂いた「阿片」

残りは「旧宗族階級」と「旧胥吏階級」です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-06-29 00:49

無事帰還

と言っても早速くたばっていますので、お便りへの感謝だけで失礼します。

しかしなんぼ考えても、蒋介石が負けた理由が分からないです。
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# by dokkyoan | 2011-06-26 05:20
先に大阪及び名古屋の方々には、ご無礼の段、お許しの程を申し上げたうえで話を進めさせて頂きます。

これは小誌の友人もそうだったのですが、名古屋人は一般に上京滞在時、己が名古屋出身であることをひたすら隠そうとします。

にもかかわらず購読紙は東京「中日」スポーツ、そして「だで(=「だから」の意」を標準語と思い込んでいるので、日ならずして名古屋人であることが露見します。

それから名古屋の「身内」のことを悪く言われるのが大嫌いで、その友人は性格も温厚、先般の震災において小誌の知る限り最も早く福島原発の危険性を指摘した、普段は理性溢れる理系ですが、震災の少し前に電話で話をした際、原発を保有している中部電力は「いかんて~」(良くないの意)と言いながら、それでは中電の首脳陣は如何と調べたところ、現職社長こそ東大理系(建築)だったものの、会長はお坊ちゃん大学の理系で、父親が同社の副社長だから完全な親の七光り、前会長は馬鹿田大学ずぶずぶ文系で、原発の発電の原理すら分かっているのが心配な布陣でしたので、「中電は馬鹿」と言っていると、その温厚な友人の息が荒くなり、「悪いと分かっていても、中電とは関係ないけれど、余所者に悪く言われるのはヤダ」と言い出しました。

どうも名古屋人は面白い発想の持ち主揃いで、某グラビアアイドルが高校の後輩と知った件の友人、「偶然とは思えない」、向こうが結婚しても良いって言ったらの質問に、「全ての条件を呑んででも迎え入れる」との由。

そして面白いのがトヨタの「扱い」で、あれは三河なので半「余所者」、半「身内」らしく、大抵の日本人は名古屋とトヨタの区別がつかないので、都合の良い時には身内扱い、都合が悪ければ「余所者」になるそうです。


対する大阪人、大阪が「グローバル・スタンダード」と信じて疑いません。

ですからプロ野球で交流試合が始まった際、大阪人≒阪神ファンは当然の如く黄色と黒の法被をきて、例えば札幌に乗り込み、三塁側が一杯になれば当然の如く一塁側を侵略し、敵チームを悪く言うのはまだしも、見方がチョンボした時の罵詈雑言は相手チームの応援団を怖れさせるに足りるもので、兎に角阪神だけは「パリーグの試合全てが甲子園状態」、うっかり甲子園に乗り込もうなら、試合展開次第では身の危険も感じる思いをして帰途に就きます。

当然、上京しても標準語は使わない、「大阪弁くらい、喋らんでも理解せえよな」とばかり大阪弁を駆使します。

阪神すら聖域ではありませんのでは、他人が言う前に「大阪市はなっとらん」、「関電(関西電力)は態度が悪い」とか平気で言います。


蒋介石は名古屋市(南京)ではないが、その周辺の田舎の貧しい家の出身と仮定します。

まずこの種の人間は「名古屋コンプレックス」を持っています。(その証拠に同じ新築住宅物件でも名古屋市内だと端っこでも1,000万円高くなります)

才能と努力で名古屋とその周辺を支配下に置きました、これが初期の南京政府です。

でも「天下統一」のためには東京(=北京)を掌中に収めねばなりませんから北伐を断行します。

でも首都は名古屋(南京)、強烈な郷土意識を感じますが、政治的感覚としては間違っています。

東京(北京)を獲ることが天下統一の最低条件です、それまでの統治機構は全て北京に残っているのですから。

トヨタ(浙江財閥)との繋がりも出来て、憧れの名古屋(南京)に首都と置いて天下統一目指しますが、東北人が南下して東京(北京)はおろか名古屋(南京)まで占拠します。

仕方なく奈良盆地に逼塞しますが、蒋介石とその一党には奈良県民は「余所者」にしか見えません。

蒋介石の「故郷恋しや」の念、それと身内と余所者を峻別する精神構造、中国では当たり前ですがそれでは革命は生まれません。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-06-13 23:57