世を毒する言動、空疎な報道・社説・論説等に遠慮仮借なく鉄槌を下します。


by dokkyoan
確か塩野七生女史もこの見解に与していたと思うのですが、(西洋)中世は「質」の時代で、例えば馬と言う運搬手段と重武装が可能なのは、諸侯や騎士と言った一握りの人間集団に限られていたため、幾ら被支配階級が束になって刃向かっても皆殺しにされるのが落ちなので、どんな苛斂誅求に遭ってもそれに従うしかなかったと言われます。

それに対して近世は「量」の時代で、「質」を圧倒し流し去るだけの「量」を確保出来たものが近世に到達出来たそうです。

これらの仮説が正しいかどうかは別として、近代から言えばどうでも良い話ですが、ただ近世が生み出し得る「質×量」の総和を近代の「質」は簡単に凌駕し得ることだけは間違いなく、その点を踏まえればオスマン・トルコもムガール帝国も、ソ連時代を含む今の共和制ロシアも、朝鮮戦争時の中国(=今の中国)も、近世の段階で留まっている、少なくとも近代ではないと断言することが出来ます。


歴史的にどの段階で留まっているか、それは戦争の仕方に最も顕著に表れます。

レニングラードだったかスターリングラードだったか忘れましたが、独ソ戦の山場でソ連側は、その都市だけで10数万の犠牲者を出しながら辛くも死守しましたが、その一割は「同士討ち」だそうです。

何故かと言うと、このままではナチス・ドイツの前に屈することは確実ですから、共産主義に殉じる吶喊精神で敵に突入しないと食い止められませんが、そんな役割は内心誰も欲していません。

結局、かつての「反プロレタリアート反動階級出身者」にお鉢が回ってくるのですが、誰だって死にたくないですから後ずさりしてしまうのが人情と言うものです。

その後ずさりを許さないのが鉄の男スターリンで、ある一線を引いてそれより後ずさりした自軍の兵士を忠実な共産党員兵に容赦なく射殺させました。

これが「同士討ち」の真相です。

10数万と言う死者の数そのものがドイツ軍の攻撃の熾烈さを物語っていますが、「同士討ち」の数の凄さも引けを取らず、共産党員からすれば旧反動勢力出身者は真っ当な人間ではなく、命を賭して共産主義に奉仕して初めて価値のある存在に過ぎなかったのでしょう。

それはそれで深刻な問題を含んでいると思われますが、この戦法はオスマン・トルコの得意とする戦法で、領内各地から強制徴兵したキリスト教徒を主とする「寄せ集め集団」を最初に相手主力にぶつける際、その雑兵軍団の最後尾に居たのが、精鋭を誇り忠誠この上なきスルタンの近衛兵(にして私兵、奴隷兵)のイェニチェリでした。

建国当初の共産主義中国は、中国共産党と地方中小軍閥の大連立政権みたいなものですから、朝鮮戦争の「弾除け」に大量動員されたのは、これらの子飼いの私兵である筈がなく、農民と旧反動勢力出身者であったことは容易に想像出来ます。

少し違ったのは10億の民から選抜すると流石に桁違いである点、それと米国は日本との「超大国の卵決定戦」と言う高次元の闘いに勝利しておきながら、低次元戦争に対する勉強を全く怠っていた点で、あの時点で中国が参戦しようがソ連が本格介入しようが「前近代的戦法」を使うことは分かり切っていた筈です、兵法書を紐解けば。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-05-18 00:09
とある古書店にて先日、講談社「世界の歴史 ~中国の革命~」(市古宙三著)を100円にて購入、お値段もさることながら、岩村忍、林健太郎、堀米庸三(以前も以降も敬称略)と言った、誠に「香ばしい」山川出版社欽定教科書系歴史学者が企画委員として名を連ねています。

まだその前書きしか読んでいないのですが、前書きに西安事件が取り上げられていて、蒋介石を救ったのは他ならぬスターリンであることをあらためて理解すると共に、少なくとも1936年時点の中国人の歴史観が「近代以前=精々近世、下手をすれば中世」と言うことが確認出来た点で大変役立っています。

蒋介石が中国でも先進的な歴史観の持ち主かどうかは存じ上げませんが、仮にそうだとしても「五十歩百歩」、この時点の中国の認識力そのものが近代列強から遥かに遅れていると言わざるを得ません。


今川義元が後の徳川家康こと松平元康の所領を実質的に「属国化」した際、義元を戴く遠州衆及び駿河党に、三河の連中との間に同朋意識は有ったかと言えば、これが全くなかったから元康の所領に対する処遇は苛斂誅求を極めました。

三河の連中を根絶やしにして所領を広げることが目的でしたから、「寄る辺なき漂泊部隊」松平軍団は常に危険で消耗率の高い戦場に投入されました。

要は「降伏した仇敵は磨り潰して、残った所領は勝者が分け合う」と言うのが戦国時代までの「常識」で、同様の例は第二回の元寇で元王朝(=大元)が派遣した江南軍を挙げることが出来ます。

旧南宋の降将率いる部隊なぞ、そもそも信頼が置けませんし、消滅してくれた方が軍糧も装備も節約出来るからその方が有り難い、つまり捨て駒です。

蒋介石の張学良に対する扱いもその域を出ません。


元和偃武を評価すべき点は、その寛容さであり、歴史を紐解けば「清盛が源頼朝を赦したから平家は族滅の憂き目に遭った」ことは一目瞭然、歴史通の家康でしたら絶対その点を弁えていた筈ですが、それでも仇敵を赦したから薩摩も長州も生き延びることが許され、明治維新で敵討ちが出来ました。

織田信長も豊臣秀吉も近世を超えて近代的側面も多分に有する人物ですが、共通するのは寛容と「内需に頼らないこと」で、少なくとも日本が近代に跳躍するための必要条件を幾つか満たしてくれました。


北伐を終えて中国の中枢部分を抑えた蒋介石、それまで日本に対して宥和的だったのは北伐を邪魔されたくなかったからで、換言すれば「中枢部さえ握れば列強(特に日本に)に勝てる」と考えていた訳で、張学良に対する帰参工作が積極化するのは当然で、「焚き付けられた張学良が関東軍に勝利すればそれで良し、その時は子飼い部隊で張学良軍を叩きのめして満州地区を取り戻すし、相討ちになってもその時点で乗り込めば満州は国民党に帰する」と考えていたと思われます。

つまり蒋介石には「関東軍が張学良の軍閥集団に勝利出来ない」と言う前提と、「満州は国民党が回復する領土であり、如何なる結果が出ても張学良の私領にはさせない」と言う考えがあったと考えられます。

結局、北伐で得た「中枢部分」以外は満州も含めて「二級領土」で、この二級領土に対する蒋介石の見方は、後に重慶や台湾で如実に示されます。


対する関東軍、圧倒的不利と思われる状況下で、石原莞爾はマハンやクラウエウィッツと同じく「近代戦は装備や多寡で決するのではなく、軍事思想がその帰趨を決める」ことに気付いていました。

ですから蒋介石軍は米国の支援を得て近代化していましたが、その軍事思想は近代から程遠いものでした。

そのため満州を日本に奪われ、「寄る辺なき部隊」張学良が子飼いの軍団以外は何も持たず蒋介石に降ってきました。

蒋介石からすれば当てが外れたどころではなく、何故こんな羽目に陥ったのか「分からない」、阿片戦争以降、文化大革命が終息するまで、中国史を支配していた概念、それは何故こうなったのか「分からない」でした。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-05-09 00:02

時代認識

ご指摘有難うございます、それにしてもお恥ずかしい。


「海の覇者」大英帝国と言う近代=列強と遭遇した時の中国は、まさに「異民族王朝であること除けば、(表面上は)完璧な理想的国家」でした。

その「理想国家」の実態を見極める前に日本の「鎖国」に少し触れたいのですが、江戸幕府は「自発的」に鎖国を実施しましたが、「強制的に」開国を迫られました。

自発的鎖国が可能だった理由は、その時点で日本に攻め込む海外勢力が見当たらなかったから、意図せざる開国を余儀なくされたのは、国防に自信がなかったらで、要は鎖国の間に日本よりも欧州を中心とする他地域の軍事力向上に格差が生じたことが根本的原因で、ここから読み取るべき教訓は「ブロック経済」に対する「自由主義経済」の勝利です。

しかもその事実を、幕閣は早くから知っていた筈です。

数少ない交易国オランダからは毎年、世界情勢に関する報告書を提出させていましたし、開国するかなり以前の段階から、英仏露伊西更にはポルトガルと言った西欧諸国は開国を幕府に打診しています。

ですから1804年のフェートン号事件を待つまでもなく、「海の覇者」大英帝国の海軍力は分かっていた筈で、そもそも何で鎖国に踏み切ったかと言えば、徳川家康がもたらした中世的「天下統一」と「平和(特に内戦の厳禁)」を祖法として維持するためには、諸侯(=外様を含む諸大名)と対外勢力との結託を予防する必要があったからで、「江戸幕府>反徳川勢力+対外勢力」である限りにおいて、鎖国は可能だったのです。

つまり当時の幕閣の脳裡には常に「開国」に対する意識があり、その時期と相手を計っていたと言えます。

換言すれば幕府も含め統治階級の特に上層部には、近代=列強とは何かを模索する認識があり、その集大成が五箇条のご誓文であり、明治維新だった訳です。


中国(当時の清朝)も交易地を広州に限定すると言う、鎖国と言っても良い政策を導入しましたが、皇帝を初め清朝の要人に「自国より優れた国家が存在するやも知れない」と言う認識を有していた人物がどれだけ居て、どれだけの勢力を宮廷内で持っていたかと言えば、それは皆無でしょう。

後の歴史は乾隆帝の時代を最盛期と看做しますが、これはつまり目の前にお手本があり、しかもそれが「理想形」であったとしても「近世型理想国家」で、近代への扉ではありませんでした。

近代すなわち列強の一因に加わることは、優勝劣敗の世界に身を投じることで、それは「比較」の世界であって「絶対」君主制ではありません。

ましてや小誌が申すところの絶対君主制型「宗族階級主権国家」において、真の主権者たるべき宗族階級=士大夫層=地主階層は何をやっていたか、その絶頂期にあって皇帝が率先するから阿片の吸引に興じていました。

おそらく今でも中国人の理想はこの「夢幻の世界」でしょう。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-04-27 00:17

公候伯子男

欧州は何故、中世以降に「近世的統一」を為しえなかったのか、小室直樹氏を初め一部の知識人は中世の時点で「宗教的統一」が成立したことに答を求めていますが、それは如何かと思われます。

確かにカトリックは排他性の強い宗派であることは事実ですが、それでもカタリ派やワルド派を初めとする異端が続出した事実屋、特に北欧での布教に時間を要したこと、、同様に東欧への布教は武力を伴うものであったこと(ドイツ騎士団の東漸)、イスラム教の出現に伴いイベリア半島がキリスト教圏から脱落したこと、更には古代ローマ帝国解体から久しく、コンスタンチノープル(東ローマ帝国ギリシャ正教)がローマ(カトリック)より優越していた史実を踏まえると、カトリックを過大評価し過ぎと判断せざるを得ません。


欧州の「中世的統一」を維持していたのはむしろ爵位ではないかと言うのが小誌の仮説なのですが、では爵位の発給権者すなわち権威の付与者は誰なのか、全てではないですがその淵源は古代ローマにありますが、フランク王国とその後の神聖ローマ帝国もその権利を有していると考えられます。

「宗教による近世的統一」と言えば、今仮に宮崎市定教授の説に従いますが、むしろイスラム教の席巻の方が該当しますし、そのイスラム勢力が滅ぼしたササン朝ペルシャ(拝火教)の方が、カトリックよりも宗教的にも政治権力的にも広い範囲を掌握しています。


歴史の教科書とは正直なもので、時代の主権者が誰かを雄弁に物語ってくれます。

分かり易い例で言えば、平安末期まで日本は「古代的統一」の時期にありましたから、やたらと天皇(上皇)の名前が出てきてそれを暗記させられます。

それが鎌倉時代になると後鳥羽上皇、南北朝時代の後醍醐天皇、ずっと下って後水尾上皇、散発的でいずれも政治的敗者として登場します。

それが明治維新を経ると、元号がすなわち天皇の称号になると言う「生前諡号」と言うべき制度が確立され、「天皇中心の中央集権制度」が近代化及び現代化を伴いながら今に至ります。


翻って中国はどうなのか、皇帝から叛乱の頭目、異民族系軍閥の領袖まで時代によって様々ですが、その根底にあるのが「領土拡大と中央集権の追いかけっこ」です。

中央集権の下で地力を蓄えると領土が拡大しますが、領土拡大は遠心力を伴いますから、時に中央集権の方が息切れします。

この中央集権の綻びが、それに相応しい領土を維持する能力を使い果たした時に「乱世」は到来します。

1840年に中国が「近代との遭遇」以前は、保持する領土に相応しい中央集権を打ち立てることが出来るか、これが課題であり、その繰り返しだったのですが、「近代」とはそんなに甘いものではありません。

現代でさえ、古代や中世を引きずっているの歴史の実相であり、例えば天皇制は時に中世的思考を、場合によっては古代的思念を甦らせることが出来る一種の歴史的「装置」です。

例えばイスラム社会の多くが部族制度を温存していますが、近代はその文明が古代や中世、或いは近世の遺物を抱え込んでいることには寛容です。

近代が要求すること、それはただ一つ、「立ち止まらないこと」、これだけです。

換言すれば立ち止まれば奈落の底へ転げ落ち、小誌が申す「退化」が始まります。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-04-25 00:14

中国とは何か

花粉症で伏せっている間、朦朧とした頭で中国や米国、ついでに北朝鮮のことをつらつらと考えていたのですが、近代化に成功した国々は何らかの形で革命に成功しているのではないか、そういう見方に傾きつつあります。

革命と言っても何も階級の転覆だけが革命ではありません。

国別に考察しますと、米国は独立戦争と言う名の「米国(独立)革命」、英国は名誉革命に至る一連の政治変動(それよりも囲い込み運動が革命の役割を果たしたと思われます)、フランスはご存知フランス革命、ロシアすらロシア革命があります。

日本に至っては元和偃武と明治維新の二度に亘って革命を経験していまして、明治維新の意義も語り尽せないものがありますが、元和偃武もそれに劣らずその功績を高く評価すべきもので、勝者が敗者に対して武装解除しないまま所領を認め、一定の自治すら容認し、何よりも武士の棟梁と言う軍閥の領袖以外の何物でもない者が「天下統一」と「平和」を最優先すると言う、何とも奇妙奇天烈ですが非常に有意義な革命でした。


革命の意義を一言で表現すれば、既得権益の再分配及び開放と中央集権にあります。

ロシア革命があったからこそ、旧ソ連は超大国と世界が見間違う程の「陸の王者」になり得たのですし、ドイツも統一戦争を通じてプロイセンを軸とする中央集権を確立しました。

米国に至っては植民地から近代化と産業革命を経て列強になり得た唯一の国家で、それだけでなく日本と呼応する形で「陸海空三次元の支配者=超大国」へと登りつめる階段を駆け上がり始め、その過程で唯一の超大国の座を巡って日本と干戈を交えました。


明治維新と中国の歴史的諸事件を比較すると分かり易いのですが、明治維新は支配階級たる武士による、武士の既得権益の諸階級への開放であり(だから「四民平等」)、同時に天皇を中心とする中央集権国家の建設がその目的でした。


結論から言えば中国には史上、近代政治用語で言うところの革命が起きたことはありません。

「既得権益の開放」と「中央集権」の観点から判断すれば明々白々です。

辛亥革命でこれらの目標が達成されたか、答えはその後の中国誌が物語っています。

共産中国の建国は、中国共産党を含めた中小利権集団が、最大の敵たる蒋介石を破っただけの話で、これは壮大な逆転劇ながら(だから小誌もその理由が分からず困っています)、あくまで私闘の域を出ません。

強いてプロレタリアート革命と言い得るのが文化大革命ですが、毛沢東による権力の私物化を許すかどうかの争いで、これも革命に値しませんし、仮に革命的な部分があったとしても革命側の敗北に終わったのですから、革命未遂に過ぎません。


近代への渡り廊下である革命を経ていない以上、近代にはたどり着けません。

それどころか阿片戦争から文革終結に至るまで、国力は急勾配の下り坂を転げ続けました。

この間が小誌が申すところの「退化」の期間で、日本の鎖国でさえ、競争原理を否定した負の側面が幕末に表面化し、列強に後れを取ることになりましたが、日本は搾取されませんでした。

それに対し1840年(阿片戦争)から1980年前後(文革終息)まで、列強に搾取されたうえに統治能力を失い、群雄割拠と内紛で体力を使い果たしたのは中国の真の姿です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-04-19 22:44
一般に中世は停滞期と認識されていますが、その特徴は地方分権(群雄割拠)、公法に対する私法(掟)の優越、私領の増大、刑罰の残酷化、階級の固定化、血筋と家柄優先主義、宗教の定着などが挙げられます。(宮崎市定京都大学名誉教授の学説を大いに参照)

欧州ではゲルマン民族の大移動を以って中世の始まりとしているみたいですが、仮にルネサンスを中世の晩鐘にして近世の夜明けとしても、それまでもそれ以後も中世的要素を払拭出来ていません。

特に中国と比較するとその差は歴然で、その近世つまり「北宋以降清朝滅亡以前(厳密には阿片戦争以前)」は曲がりなりにも天下統一を実現或いは志向したのに対し、欧州は今に至るまで多数の国々が点在する分裂したままで、欧州には近世が存在しない、中世から「近代ではない段階」を経て、一気に近代へと移行したのではないかとの疑念が拭えません。


その点、日本は意外と時代区分がし易いです。

大和朝廷の成立以降、平城王朝(奈良時代と呼ぶべきか)で古代的統一は頂点に達します。

何故そう言えるかの、藤原仲麻呂と孝謙天皇(上皇)の対立が決定的となった時点で、両者が手に入れようと争ったのは軍事力動員の許可を意味する御璽でした。

この事実は、最高権力者といえども私兵を抱えておらず、全ては国家に従属する「兵士」と「国軍」であったこと、個人の発言より法令が優先されていたことを物語っています。

同時に奈良時代は「兵士」はいても「武士」は存在しない、国軍は存在しても独立系私兵集団(軍閥)は存在しません。

この古代的統一が緩やかに解体していく過程が平安時代で、源平の争乱を契機に時代は中世へと突入します。

日本の中世の面白い点は、二元政治から多元政治を経て群雄割拠の無政府状態が出現した点で、鎌倉幕府が守護と地頭を置いたことから始まり、応仁の乱以降は辛亥革命後の軍閥跳梁跋扈の中国も真っ青の乱世に至ります。

此処で近代的(近世的ではありません)感覚を持った織田信長の出現を以って近世の芽が出てきますが、その思想は「天下布武」、軍事力による天下統一で、これはすなわち既得権益の全面否定です。

そして既得権益を認めつつ天下統一の手本をみせた豊臣秀吉を経て、「兎に角、俺に頭を下げて臣下の礼を執れば既得権益は認めるから、命令だけは絶対服従」と言う徳川家康に至って「日本的近世」が始まります。

この独特の、ある意味中途半端な統一国家が、爾後の格好の踏み台となります。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-04-13 11:12

米英確執延長戦

それにしても、「大」きくもなければ「帝国」でも無くなったと言うのに、英国と言うのはしぶといなあと感心させられたのが次の一件です。


不審死の英国人、英情報会社コンサルタントだった-重慶スキャンダル
http://jp.wsj.com/World/China/node_414989


もう少し真っ当な日本語に訳せないかと言う不満はさておき、英国が太子党(の一部)と繋がりを持ち、重慶にまで情報収集の手を伸ばしていた事実はやはり見逃せません。


大英帝国が中国に於ける事実上の「主権者」であり、列強による分割統治で中国が解体寸前であった頃、大英帝国が手下として使っていたのは所謂「反社会勢力=黒社会」だったと考えられます。(そして少なからず「少数民族」とも重なり合います)

植民地支配の形態は様々ですが、搾取或いは富の強制移転と言う点では共通していますし、その対象はそれまでの主権者、つまり最も富裕であった階層と理解するのが妥当と思われます。

貧乏人から絞り上げるにしても、それはあくまで「結果」又は「結末」であって、強奪する方から言えば富裕層を狙い撃ちする方が効率的ですし、富裕層=それまでの支配者ですから、被支配層からの集金術には長けています。

従って最も効率的な富の吸収装置は他ならぬ国家権力で、事ある毎に難癖をつけて賠償や借款、或いは特権を認めさせ、それを護らせる役割をも押し付けることになります。

但し、戦争ばかりしている訳にも参りませんから、「平時の搾取」方法も用意しておかねばなりません。

面白いのは、(「近世」の定義は少し脇に置いといて)近世的大国であった清朝(=大清)からみれば、上海や香港からは何の価値も見出せず、これらに地政学的価値を見出したのは史上初の「近代的列強」大英帝国だった点です。

「海の覇者」にしてみれば絶好の中国侵略拠点が寒村のまま放置されているのですから、垂涎の的以外に表現の仕様が無かったでしょうが、その読みは正しく、上海と香港は立派に「蠍の両爪」の役割を果たし続けます。

国家において最も生活が不安定で、事業の利益率が小さいのは裏社会です。

家族を含めた福利厚生を眺めれば、それは一目瞭然で、非合法か脱法行為に走るのは食うためです。

ましてや近世から近代への脱皮に失敗し「国民国家」以前の段階に(おそらく今も)留まっている中国で、最下層よりも辛い立場に置かれている輩に、天下国家を論じることそのものが無益です。

それを大英帝国は、働きさえすれば家族共々食わせてくれる、そしてこれは異民族支配の共通点ですが、「被支配民族を平等(?)に差別してくれる」、名家であろうが胥吏であろうが裏社会出身であろうが、英国紳士が中国人を蔑視する点では同じ、この「帝国主義的」態度は、標的にされた階層には苦痛かも知れませんが、社会の爪弾き者からすれば考えられない「厚遇」です。

さて、ここで出てくるのが胥吏です。

大英帝国と清朝、いずれに「忠誠」を尽くしますでしょうか。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-04-02 01:32

扉の向こうに

真摯なお便りを頂戴すると、素直に嬉しいですし励みにもなりますが、同時に自らに課した重たい宿題、別の場所でも申し上げていますが、「同時代人の使命は、後生により多くの善とより少ない悪を残すこと」と言う私見が如何に至難の業かを思い知らされます。

日本のことはあらためて鳥瞰する所存ですが、世界史を初め郷土史に至るまで、歴史と名のつくものに立ちはだかる最大の障壁は、「四方八方に散らばる点と点を結んで、一冊の書物に纏める」だと思われます。

例えば現時点の南北朝鮮は、古代、中世、近代、現代の如何なる段階にあるのか、説明がつかないのですね。

それと「落ちこぼれ(退化)」と言う概念を導入しないと、つまり次の歴史的段階に移るのに失敗することが歴史には有り得ることを認めないと、歴史は語れないと思われます。

今、ギリシャが問題になっていますが、歴史的に言えばギリシャは古代から中世に移れませんでした。

そして中世において欧州といえばビザンチン帝国で、西欧が辺境でした。

中世を暗黒の時代と定義する向きも多いですが、それでも東ローマ帝国や唐(宮崎史観に由りますと中世です)といった比較的有力な勢力も存在しましたし、何より遊牧民族が闊歩した時代でした。

歴史は「食うか食われるか史観」を基に叙述されるべきではないか、これが今の率直な感想です。


新大陸なかりせば、欧州はイスラム教(オスマン帝国)に併呑されていたという説があります。

事実、東欧の相当部分はオスマン・トルコの支配下に入りましたし、歴史を遡ればイスラム勢力の攻勢に為す術が無かったキリスト教勢力は、スペインを代償にフランスの手前で漸く押し返す有り様でした。

そのイスラム勢力に「食われた」スペインは、新大陸の富を満喫出来ましたが、結局は脱落者となって今に至っています。

そして日本は、その自覚がありませんが「東洋復活」の先駆けでした、鎖国をしていた引き篭もりがです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-03-27 00:21

近代とは ~承前~

近世が「中央集権の始まりにして合理的思考の成立」時期であるならば、近代は「近世を通じて集積した知識や知見が産業革命となって結実し、同時に国民国家の成立と民族主義の高揚を伴いながら、列強へと進化する過程」と定義することが言えます。

近世的大国がトルコ(オスマン・トルコ帝国)、インド(ムガール王朝)、そして中国(清朝)であるならば、面白いことにいずれも異民族王朝(征服王朝)で、征服民族(順にトルコ民族、モンゴル民族、満州族)と多数派民族(アラブ民族等、それ以前の土着諸民族、中華民族)が異なる点は特筆すべきと思われます。

そのいずれもが最初の列強にして「海の覇者」たる大英帝国と接触し、手痛い打撃を蒙ります。

オスマン・トルコは1840年のロンドン会議でエジプトの事実上の分離を認めさせられ、インドでは1858年にムガール王朝が滅亡し、中国では1860年の北京条約で大英帝国の第一次侵略が完結します。

つまり「近世」が束になっても敵わない、それが近代が生み出した化け物「列強」です。


近世的大国が異民族王朝であることは、それらが近代に脱皮することを不可能にしました。

国民国家の成立には「お前と俺とは同じ国民、国民であることは部族や民族よりも優先される」と言う意識が芽生えている必要がありますが、異民族が社会の頂点に存在することは、そう言った認識が醸成されるうえで大いに弊害となります。

その点、日本は17世紀初頭から200余年に亘って近代をじっくり熟成することが出来ました。

憾み辛みは完全になくならないとしても、時間と共に薄まるのも事実で、幕末にお伊勢参りが爆発的に流行しましたが、これって「俺たちとお前達は別」と言う集団があちこちに存在していれば不可能な話で、伊勢にたどり着く前に身包み剥がれた挙句に殺されるのが落ちです。


では「近世から近代への脱皮」の必要条件と十分条件は何か、前者が「合理的精神に基づく自然科学の発達=産業革命と国民主義精神の成立」ならば、後者は「新大陸との接触」にあると思われます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-03-24 01:41

近代化とは

面倒臭いのでネイティブ・アメリカンなんて言わずインディアンで通しますが、「新大陸」に上陸、侵食してきた白人と戦う過程で、少なからずのインディアンが当時の最先端西洋式武器に習熟し、それを使いこなすことが出来ましたが、ではインディアンが近代化したかと言えば、今もってその水準に達していないと思われます。

宮崎市定京大名誉教授(故人)の説に従えば、西アジアはヒジュラ(622年)を以って、欧州はルネサンスを機に(14世紀頃か)、中国は北宋の成立(960年)にて「近世」の始まりとしています。

この説が妥当かどうかは議論の分かれるところですが、「近世」を「中央集権の始まりにして合理的思考の成立」と仮定すれば、欧州を除いて概ね成立すると思われます。

西アジアではイスラム教による領土的、言語的、宗教的統一が現実のものとなり、中国でも安史の乱(755年)以降の分裂と混乱を曲がりなりにも収拾したのが北宋です。

欧州は言語的統一も領土的統一も、古代ローマ時代まで遡る必要がありますが、中世を通じて宗教的統一はありましたが、ルネサンスの副産物は宗教改革ですから、「分裂傾向を強めながらの合理的思考の浸透」と言う特殊な経緯をたどります。

因みに日本の近世の始まりは、織田信長の出現を待たねば成りませんので、16世紀半ば乃至後半、信長を嚆矢として徳川家康による国家統一まだ押し伸ばせば1615年と言う答えになります。


近世への到達は早い程に有利とは限りません。

其処に至るまでに、或いは近世の何処かの時点で「部族制度」を清算する必要があります。

世界の殆どが部族制度から脱していないのが実情で、部族制度に従う限り、異なる部族に所属するものは部外者であり、場合によっては敵、或いは客人です。

そして部族制度を温存したまま近世に突入したのが西アジアで、宗教的統一と部族毎の分立が並存する格好となって現在に至っています。

この「現在に至っています」と言うことはすなわち、西アジアは未だ近代に至っていないことを物語っています。


宗教とは何か、突き詰めて考えれば「保険」だと考えられます。

部族間で対立していても宗教的統一を達成していれば、つまり宗教の下で一致団結出来れば、強力な外敵に各個撃破されません。

その代わり宗教的統一が部族社会を保護する形になるため、部族社会を解体したうえで近世に入った地域に遅れを取ることになります。


日本は織田信長の出現が近世の始まりであるのに対し、「近代」へ歩み始めたのは勿論、明治維新です。

ではお隣の中国はどうか。

960年の北宋成立が近世の始まりならば、その終焉は1840年の阿片戦争勃発です。

ですが1840年を近代の始まりとするのは誤りで、ここから文化大革命が終わった1980年手前頃まで、中国は「近世」でもなければ「近代」でもない、世界史上でも珍しい「退化」の時代に入ったのではないか、そう思われるのです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-03-23 00:54

復帰第一声

漸く体調不良から脱け出しつつあります。

その間に中国情勢もミャンマー情勢も激変していますが、色々な意味で世界と世界史は、「表」と「裏」を持っています。

小誌が試みては跳ね返されている「中国共産党(毛沢東、大中華主義、地方分権)の勝利と国民党(蒋介石、小中華主義、中央集権)の敗北」の真相も、当時の中国の国内情勢だけでは解明出来ないことは分かっていても、幾ら補助線を引いても明らかになりません。

要は何か大きな忘れ物をしている筈なのですが、それが分かれば苦労はありません。


時々不思議に思うのですが、制海権と制空権と言う軍事用語は存在しますが、陸上(と河川)でこれらに相当する言葉はありません。

強いて言えば「勢力圏」でしょうか、それから「制水権」。


中国史を紐解けば、統一したかと思えば四分五裂状態になったりしますが、大河が東西に並ぶ様に存在するこの国では、「南北朝」はありえても「東西朝」は例外的です。

しかも最北の大河は黄河ですから、これより北は本来、中国には入らない筈ですが、それを力尽くでやり遂げたのが万里の長城と言えます。


中国の悲劇は、北方騎馬民族との折衝と東西交易路の確保が、有史以来の優先課題であったにもかかわらず、産業革命を経て近代化を達成した列強に、比較的関心の薄い南(大英帝国、フランス)と東(日本、米国)から蚕食され、更には帝政ロシアに北と西から圧力を加えられて四面楚歌に陥った点にあります。

近代化は国民各位に思い負荷を加えます。

教育水準の向上然り、増税然り。

阿片戦争以降の中国が、やることなすこと全て裏目に出たのは、それまでの成功体験から、自らが世界の最高水準に達したと勘違いしたからで、それは「近世的最高水準」でした。

「近代的最高水準」或いは「現代的最高水準」は全く質の異なるもので、近代的最高水準に達した欧州列強も現代的最高水準に達すること叶わず、それが今の欧州経済危機となって表面化しつつあります。

「現代的最高水準」に達し得るのは今のところ米国と日本だけ、この両国、特に日本と向き合って初めて、中国の「近代化」は始まったのであって、それ以前すなわち阿片戦争以降は断じて近代ではなく、「近代に接した時代」に過ぎず、中国そのものは中世で立ち止まっています。

ですから「近代化」した蒋介石の軍隊は日本軍になす術もなく敗れ、その蒋介石率いる国民党を斥けた共産主義中国も、その時代精神は中世の段階で止まっていました。

洋務運動も含め、装備の近代化は熱心でも精神の近代化は成就出来るものではありません。

だから黒海艦隊の退役空母を大事に改装する様なことをやらかします。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-03-16 23:44

大帝国の悲哀

近世に於ける大帝国と言えば、東アジアでは明朝(=大明)や清朝(=大清)に代表される中国、中央アジア(インド亜大陸)はムガール王朝に象徴されるインド、イスラム社会ではオスマントルコが覇を唱えていました。

近世型大帝国の共通点は、「動員出来る資源が、質と量の両面で近隣地域を凌駕していること」でした。


近世と近代の最大の違いは、近世は「成り行きでたどり着ける」が、近代は「発見又は発明する対象」と言うことです。

そして「近代」を発見(発明)した国から順に、列強と言う称号が与えられることになります。


近代の最低必要条件は、「教育(民度)の同時多発的高度成長」です。

簡単に言えば、国民に近代戦争を強いるには識字率を高めることはおろか、日本語とは限らない書籍を消化し、更に創意工夫を加えて次代に受け渡すことが必須条件ですから、国民の教育水準向上は喫緊の問題であり、同時に世代を越えた課題でした。

ですから明治政府が教育に力点を置いたのは当たり前で、幸いにも江戸次回の段階で既に識字率が一説には75%に達していたことが幸いしました。

どんな弱小国でも教育を重視することは可能ですし、海外の干渉を受けにくい分野でもあります。

そして教育は「一致団結」と「一騎当千」」を生み出します。

今でも会津は長州に対して微妙な心理を持っているかも知れませんが、教育面では高等教育に至るまで、長州は会津を差別しませんでした。

「日本人は皆、同胞」であり、教育による切磋琢磨はその程度により、「一騎当百」、「一騎当千」、「一騎当万」を無数に生み出します。


近世型大帝国はその成功体験から脱することが出来ないが故に、近代の必要性を認識し、近世を発見、発明することの意味を理解出来ませんでした。

実は「近代型帝国=列強」にも別の悲哀が待ち受けているのですが、英仏独に代表される列強からみれば、近世型大帝国は蚕食の対象であれ、脅威では決してありませんでした。

そしてオスマントルコは英仏で分割し、インドは大英帝国が独占、中国は弱小列強も総動員で分捕り合戦を展開しましたが、大英帝国が最大の受益者でした。

そして近代が内包する最大の難題は、「発見(又は発明)しない限り、近代には立ち入れない」と言うことで、つまり今でも現代はおろか近代にすら達していない国々が多数存在します。

此処で問題、中国は近代に移行したか、したとすればそれは何時か。

勿論、阿片戦争を以って近代の端緒とするのは誤りです、それ以降も中国は「おかしい、おかしい」と言いながら奈落の底に向かって転落し続けたのですから。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-02-15 00:13
近代と近世の分水嶺は、近世に於いて動員し得る最大限の「量的資源」、並びに可能な「高品質」を、最低限の「量的資源」と格段に違う「超品質」で凌駕し得る点にあります。

自動式機関銃が一丁あれば、立地条件等が整っていれば、たった一人で数千人の旧式武装集団を釘付けにすることも可能です。

この「質の飛躍的向上」を成し遂げるかどうか、これが近世と近代の違いで、これを端的に表したのが「富国強兵、殖産興業」、つまり明治維新です。

その意味で明治以降を近代、幕末を近代前史とする史観は間違ってはいませんが、中国史で阿片戦争を近代の最初に置くのは間違っています。

洋務運動に着手することで初めて近代への足掛かりを得ることが出来ました。

ですが中国の近代化は死産に終わりました。

日清戦争で敗れたからです。

翻って洋務運動の真の目的は何か、答えは意外と簡単で「大英帝国の追放」で、後の蒋介石の雛形とも言えます。

だから同じく近代化に邁進していた日本を咬ませてみた訳で、これ以降の中国が「復古」に閉じ篭って、義和団の乱に至っては近世的知性すら感じられないほど「退化」していきます。


対する日本、日清戦争で清朝(=大清)を破り、日露戦争で帝政ロシアを革命寸前にまで追い詰める奇跡を演じ、その結果、「食うか食われるか」と言う点では食われる心配が無くなったのですが、明治維新以降、無理に無理を重ねてきた結果、「食えるか食えないか」と言う点では「食えない」国民が続出しました。

地租改正が示す様に、明治維新そのものが増税革命ですし、借金に借金を重ねてきたため、日露戦争後に地租を増額しています。

これほど割りの合わない話は無いのですが、「近代化は授業料が高い」のです。

こうなるともう、それまでの成功体験から言っても、「食う」側に回れるほどの国力があるのなら、その国力を最大限に活用して国民を「食えない」状況から救えと言う意見が世論の総意となります。

そしてこの場合の「国力」とは軍事力、軍事産業、そして輸出産業を指します。


日本が「漂流」していたのは満州事変以降ではなく、日露戦争以降満州事変以前の、大正を挟んだ期間です。

明治維新の祖法とも言える「富国強兵、殖産興業」路線で行くのか、国民に休息を与えるのか、その狭間で揺れ動いていたのですが、これは二者択一の問題ではなく、同時進行なのです。

大正と言えばデモクラシーが常套句ですが、あの普選運動も「戦争であれだけ奮闘した我々国民、いや臣民にも意見を述べる機会を与えろ」と言う、「草の根型帝国主義」の発露でもあります。

日露戦争以降、第一次世界大戦を挟んだ満州事変までの期間は、一種の模索の時期でもありましたが、その結果は「現代」への扉を開けることとなりました。

そして「現代」とは何か、「三次元の支配者」超大国の卵が孵化し、その雛が成長し、相争う歴史的段階と言えます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-02-11 23:58

日本と言う厄介者

体調が快方に向かいつつあるので舞い戻ってきました。

いつ「沈没」するか分かりませんが、根気良く付き合ってやって下さい。


近代日本は列強にとって、常に期待を裏切る存在でした。

日清戦争勃発の一報を受けた時、欧州列強の見方は好意的なものでも「引き分け」だったと思われます。

少なくとも緒戦から日本の勝利を断言した列強首脳は皆無だったでしょう。

それが勝ってしまった、張出大関を十両が投げ飛ばしてしまいました。

阿片戦争から太平天国の乱までの期間を「第一次対中列強侵略期」とすれば、洋務運動で少しは国力も回復し、地域の安定勢力になるとの列強の「見立て」を完膚なきまでに粉砕し、その「見立て違い」を暴いたのが、他ならぬ大日本帝国でした。


日本と言う存在は、動けば少なくとも極東の均衡を崩す存在なのです。

日露戦争ではバルチック艦隊まで葬ってしまい、そのため当時のペテルスブルクはがら空き状態、英独仏の侵略に対抗する海軍力が消滅したのですから、相手に急所をさらす結果となり、しかも日本に負けたことで「列強格付」の順位が下がりました。

ですからペテルスブルク防衛には、最強の列強にして「海の覇者」大英帝国か、躍進著しい「陸の王者」帝政ドイツのいずれかと手を組む必要がありました。(仏は今も昔も対露資本投資に最も積極的です)

つまり日露戦争に於ける日本の勝利は、東アジアに於いては旧ロシア権益を獲得しただけでなく、大英帝国の中国権益を除けば、対抗勢力は消滅したことになります。

英米が日本に対し「程々にしろよ」と言うのも無理ありません、極東と東欧の政治的均衡に痛撃を与えたのですから。

ですが日本にも引くに引けない理由があります、「食うか食われるか」、そして「食えるか食えないのか」と言う切実な問題を抱えていたのです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-02-10 16:54

米国の反英感情

国際関係を考えるうえで、米英関係より複雑怪奇なものは無いでしょう。

外交とは、片手で握手しながら空いた方の手で殴り合いするようなものなのは、重々承知のうえで申さば、主従関係を伴う同盟国に対してはそんなことをする必要がなく、つまりは米国独立後今に至るまで、「主従関係を伴う同盟関係」を互いに拒否してきたと言えます。

日英同盟も「主従関係を伴う同盟関係」ですが、この関係で意外と苦心を強いられたのは大英帝国の方に思われてなりません。

日露戦争を日本の引き分け以上に持って行く、出来れば僅差でも良いから帝政ロシアに土をつけてその鼻っ柱をへし折るのにどれだけ腐心したか、当時の大英帝国の外交能力は他の列強をも抜きん出ていました。

その大英帝国に建国時から嫌悪感を抱いていたのが米国で、そもそも「独立」と言う名の喧嘩別れが米国史の第一章であり、現実は兎も角、「英国に追随するのは野蛮人に屈する様なもの」と言う、一種の潔癖なまでの反英感情が、米国をして通常の列強とは異なる行動に至らしめます。

列強みたいに、中国利権を心底満足したいのに、「阿片を押し付けて侵略するなど言語道断、英国と同じ道を選択するのは国民的心情から言っても許されない」と言う訳で、門戸開放政策と称する「米国型帝国主義路線」を打ち出しました。


過去にもご指摘を受けましたが、ロスチャイルドの反米感情は凄まじいものがあり、中国を巡っての米英決戦の一端がスメドレーの活躍でしょうが、日露戦争直後に「鉄道王」ハリマン(米国系ユダヤ人だそうです)が南満州鉄道の共同経営を打診したのは、ある意味で巧妙な離間策と言えます。

桂太郎がこの提案に乗り気だった理由も分かりますが、唯一の同盟国は大英帝国なのですから、瞬時に蹴飛ばすか、少なくとも大英帝国に伝えるか、或いは英国系鉄道会社との共同経営を考慮するかのいずれかでなければならず、陸奥宗光に比べれば凡庸に過ぎない小村寿太郎が一蹴したのも当然です。

桂太郎が政治家としての資質を欠いていることは、この一件でも明々白々で、ご主人様(=大英帝国)に断りもなく話を進めたら、大英帝国が疑心暗鬼になることは馬鹿でも分かりますし、列強最大手の大英帝国を怒らせて何の特があるのか、贅言を要しますまい。


そして日本だけが気付いていませんが、中国を巡る米英大決戦は今も続いています。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-01-10 23:58

アグネス・スメドレー

スメドレー女史自身がその任にあったとは思えないのですが、大英帝国と中国共産党を結びつけた張本人は、この女性の周囲か背後にいると思われます。

(以下、概ねWikiからのパクリ)

貧困と才能とを併せ持って生まれたアグネス・スメドレー(1892年2月~1950年5月)は米国人です。

自由主義と資本主義の総本山の様に看做されている米国でも、社会主義者が大手を振って歩いていた時期がありまして、それは大恐慌(1929年)以降の数年間なのですが、それ以前にも米国経済は何度か深刻な不況に見舞われていて、社会主義を受け入れる土壌がありました。

スメドレー氏は遅くとも1920年代には左傾化していた様子で、1929年(つまり37歳前後)に自伝を書き上げると言う頓珍漢なことをしていますが、1930年に「魔都」上海に渡りあのゾルゲなどとも交友を深めています。

本人にその意識があったかどうか分りませんが、この女性には「出資者兼振付師」がいた筈で、その人物或いは集団に踊らされていたのではないかと言うのが小誌の根拠無き推測です。

女史自身は清貧であったそうですが、赤貧であろうが貪欲であろうが海外生活で物入りなのには変わりなく、渡航の段階で、ある程度の蓄えと現地での生活のメドが無ければ、行きたくとも行けません。

中国滞在中にフランクフルター・アルゲマイネとマンチェスター・ガーディアンに寄稿していたそうですから、やはり後援者はいたと考えられます。


埋葬されているのは北京、共産主義国家は埋葬場所まで「特級」(政府要人)、「一級」(革命的英雄階級=一級市民」、そして「二級」(その他)に分けていまして、旧ソ連で言えば失脚したフルシチョフの遺体が埋葬されたのは「二級墓地」です。

スメドレー女史が埋葬されているのは実は北京、仮に「一級墓地」以上で埋葬されているのであれば、中国共産党はこの女性に助けられた部分が少なからずあり、埋葬を以ってその恩に報いていると思われます。

赤狩りが最高潮に達した1950年、その対象になったスメドレー氏はイギリスの亡命、その日に死亡していますから、「口封じ」とみて差し支えないでしょう。

女史がどれだけ「英共合作」に関与していたかは不明ですが、英国と共産党中国にとって「有り難いけれど邪魔な存在」と化していたと推測されます。

英国で死んだ米国籍女性の遺体が北京に葬られている、礼節を重んじ、政治的にも英国での埋葬はまずいと考えた当時の中国共産党が、遺体の引取りを申し出てそれに英国が暗黙の了解を与えたと考えるのが自然と思われます。

この人物とその周辺は徹底的に洗う必要が有りそうです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-01-10 00:30

大英帝国の立場

蒋介石にとって中国とは、或いは国民党とは、自らの手で育て上げた子飼い部隊すなわち「身内」以外の何物でもなく、ですから外様扱いされた重慶住民を日本軍による絨毯爆撃の犠牲にしてでも「身内」を守ったのは当然と言えます。

中国共産党を含めた地方軍閥が束になっても勝てないだけの火力を、蒋介石率いる国民党軍は有していたと思わ、軍事的にはそれが正しいことは北伐と第一次国共内戦が立証しています。

ただ国内で絶対的最強でも世界的にみれば二流の軍事力ですから、最先端を行く日本軍には歯が立たない、中国全土の有象無象が一丸となっても蒋介石軍には叶わないですが、蒋介石軍も紅軍を含めた有象無象軍も、日本軍からみれば子供で、それらが壊滅しなかったのは険峻な「母なる大地」が日本軍を阻んだからです。


第一次世界大戦が勃発する1914年以前、列強支配が完璧で「門戸開放政策」を唱える異邦人の出る幕は無く、列強側も中国の如何なる勢力と交渉する必要性を感じませんでした。

第一次世界大戦の火事場泥棒と言えば日本と米国ですが、その舞台でもある中国もその恩恵に与って租界や租借地周辺で近代化(工業化)が進捗します。

この時代の大英帝国の利権に対する最大の脅威は、対華二十一か条と言う無茶苦茶ですが列強として当然の要求を出した日本ですが、日本は当時大英帝国の同盟国、手荒に扱えないが話も出来る相手で、その意味では怖くありません。

大英帝国が中国に交渉相手を探す必要を初めて感じたのは、米国と蒋介石国民党の癒着が明らかになった時点で、この親米反英政党を野放しにすることは出来ません。

ですから北伐開始より以前、早くとも1914年以降に反蒋介石国民党勢力と接触したことになりますが、どれも役立たずなことは「海の覇者」大英帝国であれば一目瞭然です。

ですが何らかの経路を活用して中国共産党を交渉相手として起用し、日華事変勃発以降は確実に何らかの黙約が存在していたと思われます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-01-04 16:29
蒋介石があまり高貴の家柄出身でないことは、その親族に目立って著名な人物がいない事実からもうかがえます。

軍人として頭角を現しながら政略結婚等でその地歩を固める一方、軍の近代化に着手したのは結構ですが、米国を手本にしたのが誤りで、米国は長距離(無寄港)航行は十八番でも、陸軍は南北戦争で止まっていますから、その軍事思想は時代遅れと言うか稚拙です。

対する日本、日清戦争で華々しく門出を飾ったと思ったら、日露戦争では塹壕戦(奉天会戦)と要塞攻略戦(203高地)を経験しています。

確かリデル・ハートも日露戦争を第一次世界大戦の雛型の様に表現していたと記憶しますが、その第一次世界大戦で日本軍はドイツの根拠地青島を制圧していますが、青島は半ば要塞都市でしたから、この時点で要塞攻略戦は「卒業」していたことになりますし、後年の塹壕戦を更に深化させた地下壕戦では、陸軍の軍事思想の進化を遺憾なく示しました。


少なくとも第一次世界大戦終結後、「海陸共に強い」のは日英だけ、「海だけ強い」のが米国、「陸だけ強い」のが強いて言えばフランス、ロシアは共産主義革命で脱落しましたし、国境を接する(元)列強は対象外、ドイツは能力は高いものの、蒋介石の部隊を育成するだけの懐の余裕はありませんし、それをすれば大英帝国を敵に回します。

大英帝国とは利害が正面から衝突していますし、日本は飢えた狼ですから話が成り立ちません。

消去法で行くと米国しか残らないし、「門戸開放政策」なんて耳障りの良い言葉を囁き続けてきたし、資金は潤沢で軍事力の近代化も申し分なしと見受けられたのでしょう。

蒋介石は「軍の近代化」に成功しましたが、軍事思想の進化と言う視点が全く欠けていました。

確かに近代化で北伐は成功し、紅軍を含む全ての軍閥を併せたより強い軍隊を作り上げたのは事実ですが、それは「田舎大名の合戦」の域を出ません。

対する日本軍は京を抑えて各地を併呑する織田軍か豊臣軍で、質のみならず量的にも圧倒していましたが、満州事変ではまさに一騎当千、寡兵良く大軍を討つところまで進化していました。

ですからその時点で彼我の力量の差を理解し日本の真意(腹減った)に応えてやればよかったのですが、それもしなかった、と言うか満州を取られて引き下がれなくなりました。

しかも蒋介石軍には致命的な欠陥があり、蒋介石が自ら育成した「身内」で構成された、結束力の強い部隊なのですが、換言するとその閉鎖性故に補充が利きません。

ですから日華事変(日支事変、日中戦争とも)で日本軍の圧倒的強さを肌で感じる段になると、その子飼い部隊の保全が最優先事項になります。

将来の中国統一のために決して失ってはならないものが、その子飼い部隊でした。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-01-01 11:00

蒋介石の誤算

帝国陸軍は補給線の確保を軽視していたと言われますが、仮にそれが事実なら、それは行軍速度の遅れとなって表れます。

「腹が減っては戦は出来ぬ」、これはまさに箴言で、食糧がないと兵士も前へ進めませんが、略奪や強制徴収したいたら進軍の速度が落ちるのは明らかです。

そもそも日本が明治維新を経て近代化に邁進したのは、「近代化に乗り遅れたら亡国する」との切迫感があったからですが、日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦を経て日本が到達したのは「貧困地獄」でした。

娘は売られて息子は兵隊にとられ、食うに食えなくなった貧困層が各地で続出しました。

つまり日本の「侵略」は自らの生存のための闘争であり、和平路線を持論とする「主権者」昭和天皇を臣民が押し切ったのも、詰まるところ「食うために戦わせてくれ」と言う大日本帝国臣民の総意でした。

従って戦略はある筈が無く「抵抗や妨害が止むまで」、戦争目的も「安心して食える状況を保証すること」、そもそも食べる物が無いから補給戦略は作戦に追随することになります。

ですから蒋介石が遭遇した日本軍とは、「食べることに事欠くことが無くなるまで、たとえ中国全土を併呑してでもその目的を達成する」点で「戦う前から総力戦を総意とする」、この上なき士気旺盛な、軍事思想、要へ医術、装備その他の面で世界最上級の、第一次世界大戦に至るまで実戦経験を積んだ軍事組織だったのです。


蒋介石の考え方は「(量)有限×(質)有限」です。

これに対し大日本帝国陸軍が到達した境地は「(量)有限=寡兵×(質)無限」です。

だから北伐完了後、約束を反故にして満州地域の回収を試みましたが、当時の日本に対して違約することはひよこが虎に喧嘩を売る様なもので、満州国建国と言うしっぺ返しが待っていました。

それでも敗因が分らない、日本は聴く耳持たない、せめて国際連盟のリットン調査団報告書=英国の本音に耳を傾けていたら、「新日英同盟」を結んでいたら良かったのですが、腹をすかせた人間に理性を求める方がおかしいです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-12-17 01:05

蒋介石の立場

俗に規律に従わない組織内組織を「関東軍」と揶揄しますが、これは軍略の天才、石原莞爾に起因する用語法です。

満州事変勃発時の関東軍は、張作霖の息子の張学良が率いる現地国民党軍と比べて、数の点に於いて絶対的劣勢に置かれていたにもかかわらず、圧倒的勝利を収めました。


「北伐」は蒋介石の現実主義と漸進主義、小誌が申すところの「小中華主義」が凝縮されています。

まずは諸軍閥と妥協してでも「中国中枢部」を掌握する、この場合の「中枢部」の北限は北京、広州から出発していますからそれが南限、要は「中国海岸線=沿岸制海権の確保と、国土東半分の平野部」でした。

蒋介石の胸の内を憶測すると、当面は「中枢部」の確保に努め、幸いにして米国資本の後押しを受けて軍も近代化が進んだから、北伐によって所期の目的を達成したからには各地の軍閥はご用済み、だから磨り潰していきますし、北京で目を光らせつつ張学良を篭絡すれば、満州から日本を追い出すことが出来る、こういう算段だったと思われます。

考えは間違っていませんが、現状分析が間違えていました、「上には上がいる」ことを。


満州事変での関東軍の勝利は、石原莞爾の用兵の妙もさることながら、その用兵術を生み出した背景にも光を当てねばなりません。

列強の条件として、「質量両面で相手を凌駕出来るほどの、段階が違う質に到達すること」が挙げられます。

インド支配に従事した英国人は、その被支配人口に比べれば僅かですし、中国に群がった列強にしても、全てを合算しても当時の中国の人口だけでなく、軍関係者と比較しても微々たるものです。

大日本帝国は中国を蚕食することでその窮状を打破することを使命としていましたから、相手が多いことを前提に作戦を立てます。

その際に練兵度や装備、補給力も考慮に入れていますから、後は問題の答を書けるかどうかで、その試験で100点満点の答を出したのが石原莞爾だっただけの話です。


当時の大日本帝国陸軍の軍事思想は、世界一とは言わぬまでも世界最高水準と言えます。

対する蒋介石率いる国民党軍は、確かに諸軍閥や中国共産党と比較して抜きん出ていましたが、師匠が悪かったです。

戦間期に於ける米軍の評価は最低で、現実に日英独(露)と比較して、遥かに遅れていました。

第一次世界大戦での評価は「補給面での貢献は絶大、前線では役立たず」です。

しかも参戦したのが末期ですから、最新軍事思想の真髄を体得していません。

とすると「米軍亜流」とも言うべき蒋介石軍が、常に中国侵略を考えながら最新軍事思想を磨いていた日本に勝てるか、その答が満州事変と日中戦争です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2011-12-14 01:25