世を毒する言動、空疎な報道・社説・論説等に遠慮仮借なく鉄槌を下します。


by dokkyoan

新大陸の意味

欧州が新大陸を「発見」したことには左程の意味はありませんが、新大陸がアジアを発見したことには大きな歴史的意味があると思われます。

新大陸の強みは何か、それはほぼ同時に近代にたどり着いたことにあり、近代に到達した最初の国家は英国で、それは(第二次)囲い込み運動で人民を「開放(解放)」することで始まりましたが、新大陸のそれは独立運動と言う形を採りました。

ですから米国はフランスよりも「近代国家」と言う点では先輩であり、しかも大英帝国からの独立と言う経緯から、反英的にならざるを得ず、英国を初めとする欧州各国が近代化の過程で「列強」に変貌し、各国はそれを認識し、しかもその点に疑問やおぞましさを感じないでいたのに対し、米国は近代化を通じて列強になったにもかかわらずそれを否定し、努めて列強と看做されない様に振舞うことを己に課しました。

新大陸によるアジア発見の最大の功績は太平洋を「有限」にしたことで、特に日本にとって太平洋岸は「水の壁」だったのが、距離は遠いけれど目的地のある「大きな玄界灘」へと劇的な変化を遂げ、これが後の海軍国日本に繋がります。

独立戦争に戻りますと、この戦争は大英帝国の正規軍に対して植民地の民間人が武器を手にして始めた戦いですから、銃による自衛権は建国の精神から言えば譲れない一線ですし、独立戦争の過程で各州が連携したことで「王制を排した連邦国家」を世界で始めて樹立すると言う偉業を成し遂げました。

そして米国は西へ西へと進み、太平洋を渡ってその衝撃が日本に達した時、近代化への助走期間にあった日本は近代国家への道を歩み始めることになります。


1820年と言えば阿片戦争が始まる20年前、既に阿片の災禍は中国全土に波及していましたが、それでもこの時期の清朝(=大清)のGDP(勿論推計ですが)は、一説によれば世界全体の3分の1を占めていたそうです。

それから190年余り、中国では日本を抜いて世界第2位の経済大国に躍り出たと言って沸いていますが、それでも一人当たりは日本の10分の1、文革終結期には全体が日本の5分の1乃至10分の1だったのではないかと考えられ、仮にそうだとすると「躍進」して日本と方を並べる程度なのですから、中国も落ちぶれたものです。

しかも最近の「躍進」は日本抜きには考えらませんから、つまり「近代」を卒業した日本に中国は近代について教えを乞うている訳です。

「近代」を如何に消化するか、それは何を以って「保険」とするかで決まります。

(続く)
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# by dokkyoan | 2013-01-13 22:42

再開します

と言っても僚誌「中国共産党に関する考察」に比べると頻度は少なくなりますが、あらためて可愛がって頂ければ光栄です。


宮崎市定京都大学名誉教授(故人)はその著書(アジア史論)の中で、地理上の分類としてのシリアの史的重要性を指摘しておられますが、現在の国家としてのシリア内戦をみる限り、その凄惨さが大方の耳目を引くことはあっても、その地理的(或いは地政学的)重要性を痛感させるだけの影響力は感じられません。(此処では国家としのシリアと地理的区分としてのシリアはほぼ重なり合うと看做します)

内戦、小競り合い、紛争等を含めた戦争は絶えた例がないですが、それに対する認識は時代により場所により参加国家によって大いに異なります。

日本では第四次、世界史的には第五次まで数えられる中東戦争(日本の第三次と第四次の間に「継続戦争」と言うのがある)の場合、戦いの帰趨を世界は固唾を呑んで見守りましたし、打倒シオニスト、イスラエル滅亡に関してはエジプトとシリアが同調し、結果としてイスラエルは二正面作戦を強いられていました。

そして反イスラエル両国の背後には、常に膨大な量の武器を供給する旧ソ連の存在がありました。


時代は変わり、エジプトが和解して以降のイスラエルは二正面作戦の悪夢から解放される一方、イラクやエジプト、それにリビアは「民主化」の洗礼を受け、その「民主化」の波はシリアと言う堤防に襲い掛かりつつあります。

この「民主化」そのものが眉唾物で、一連の政変劇はフェイスブック上場のためと小誌は信じて疑いませんが、それらの政変や内戦の仮定で浮かび上がってきたものは何かと言えば、それは「部族社会」でした。


これも宮崎史観を引用しますが、教授はイスラム教の成立(ヘジラ)を以って、西アジアは世界に先駆けて中世に到達したとしていますが、人類の歴史の多くの場面で西アジアが先駆者であったことは認めるものの、シリア内戦で白日の下に晒されたのは、宗派間(イスラム教スンニ派対アラウィ派)や部族間(アラウィ派は4部族からなる)の論理が優先する社会の現実で、国家と言う暴力装置を以ってしても如何ともし難いものがあると言う現実です。

そもそも部族や民族、宗教や国家とは何か、此処から問わねば歴史観は打ち立てられないのではないかと思われますが、小誌のそれに対する回答は「保険」です。

それから巨視的な観点から言えば、「新世界発見以前」と「新世界発見以降」、更には「米国側から太平洋横断以前」と「横断以降」で歴史は区分すべきではないか、有体に言えば太平洋航路が表街道ならばシルクロードは裏道、つまりシリアの重要性低下は米国と言う超大国の成立を踏まえなければ読めてこないのではないかと言うの愚見です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2013-01-11 23:54
世界史は通常、「古代→中世→近世→近代→現代」と言った順に歴史的事実を教えてくれますが、現実には世界の全ての国や地域が「現代」に至っている訳ではなく、そのまま立ち止まるどころか退歩する場合も多々見受けられます。

その退歩局面を仮に「退世」と命名しますが、この「退世」に突入しますと元の軌道に乗るのは極めて困難です。


例えば古代ローマ帝国は、「古代」と言う枕詞が付いていますが、その合理性は近代と紙一重で、それでも「退世」に足を突っ込んでしまうと次に待っているのは「文明の滅亡」です。

古代ギリシャ文明然り、文明が滅びると言うのはその担い手がいなくなることを意味します。


東アジアで言えば秦の大統一とそれに続く前後400年に亘る漢帝国(前漢+新+後漢)が古代統一王朝、古代が終焉を迎えますと、地方分権と言う名の群雄割拠と私法、そして私権が罷り通る中世を迎えます。

「古代」から「退世」に移りやがて滅ぶに至った最大の理由はキリスト教の国教化、つまり「神による神殺し」で、それまで神話の形で受け継がれてきた文明の核心の部分が粉砕されたため、異民族(ゲルマン民族等)が乗り込んできて中世を担うという形になりました。

つまり

古代地中海文明:「古代」→「退世」→(神による神殺し)→「滅亡」

蛮族:「未開(古代なし)」→(古代地中海侵略)→「中世」→「近世」→「近代」

そして、この「蛮族」系が今の欧州の根幹を成しているのです。


東アジアは古代から中世を経て辛うじて近世にたどり着きましたから、「古代」→「中世→近世」型と言えます。

中世と近世を同じ範疇に分類するのもおかしく、極論すれば中世は武断主義、近世は文治主義ですから全く異なるのですが、中世の冒頭(又は古代末期)を以って軍閥の誕生とするならば、その軍閥抑制の回答を模索していたのが「中世」、一定の解答を導き出したのが近世と言えます。

まずその答と言いますと「周辺有力異民族に国防と治安維持は委任し、主権(実権)はそれを迎え入れた現地大地主層が堅持する」と言うものでした。

オスマン・トルコ、ムガール帝国、大清(=清朝)、全て異民族王朝ですが、その下では主権者たる大地主層も温存されましたが、現地軍閥も異民族軍に全滅した訳ではなく、その傘下に入ったり、大地主層が養ったりしてこれも生き延びました。

付言しますと、織田信長と言う「近代の魁」から豊臣秀吉と言う「近代と近世の使い分けの名人」、そして近世に時代を戻した徳川家康らの存在は出色と言うには余りに際立っています。


「古代」→「中世→近世」型には大きな弱点がありました。

その成功体験が余りに大き過ぎることです。

1820年時点で清朝のGDPは世界の3分の1を占めていたとの推計もあり、それを改める必要は誰も感じることは不可能です。

だから「近代」には決してたどり着けないし、その必要性も理解し得ないし、劣っている現実すら認識出来ないのです。


後の「海の覇者」大英帝国は「第二次囲い込み運動」を、それに刺激される形でフランスでは革命と言う形で、米国では独立革命を通じて「大陸型近代国家」に、日本を明治維新と言う曲芸で、ドイツやもやがて「陸の王者」としてロシアと共に台頭します。

「近代」に不可欠な要因、それは中央集権、国民意識(貴方も私も同じ〇〇国民)、そして軍閥ではなく「国軍」、また何よりも「私に対する公の圧倒的優越」です。

近代の段階になると、相手が近世国家であれば、その国力や質と量にかかわりなく、粉砕が可能なのは阿片戦争(1840年)以降の英中関係が示す通りであり、その獰猛さの点で隔絶たつ差が生じているのです。


そして「古代」→「中世→近世」型の発展を遂げた清朝やムガール帝国、オスマン・トルコには「近代」が用意されていません。

用意されていたのはあの「退世」で、その泥沼から抜け出せたのは明治維新を手本にしたケマル・アタチュルクのトルコ共和国のみ、後は「近世」→「退世」の軌道に入ってしまいましたが、中国は日本を手本にその入口を探していますが、まだ無理でしょう。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-11-01 11:37

堤防を切ると言うこと

小誌は今、古代まで遡って中国を眺めていますが、何でそんなことをしているのかと言えば、今の共産党中国が「中国的近世を温存した政治体制」と言う小誌の仮説が正しければ、「中国的近世」とは如何なるものかを知らねばなりませんので、遠回りしている次第です。


中国が重視するのは今も昔も「水利」或いは「治水」で、大学に水利学部があっても不思議ではありません。

この点、日本と事情が異なっていまして、我が国には土木「学科」はあっても水利学科や治水学科の名称は殆ど見かけませんし、水利「学部」や治水「学部」に至っては、小誌の知る限り皆無です。


黄河や長江或いは大運河と、日本の河川を比較するなとお叱りを受けるかも知れませんが、関東や上方の主要河川の「付け替え」は、江戸時代に盛んに行われていて、要するに「治水」と「水利」は江戸時代に卒業してしまっています。

ですからこれらは「土木」に吸収されているのですが、実質的な中華文明の没落の始まりである乾隆帝時代の国力を以ってすれば、そして「数理優先」の思想があれば、もう少し時代は変わっていたかも知れません。


春秋の覇者たる資格の一つが、「従った諸侯に堤防の維持管理を申しつけ、故意に堤防を決壊させたり、それを許したりしないこと」でした。

日本でも鎌倉から室町時代にかけての分権傾向の強い時代、「難治の国」と言われた所、具体的には肥後や越中では、「堤防の切り合い」が日常茶飯事でした。

中央集権が確立しないと水利も覚束ないのです。

裏を返せば、中央集権志向が強い人物は、近代以前でも水利に関心を持ち、あの元朝(=大元)ですら黄河の堤防を修繕しているほどですから、河川を大事にします。

ですが「背に腹は代えられない」と思って、黄河の攻防を故意に決壊させた人物が20世紀にいまして、その名は蒋介石と言います。

1938年4月から6月に大日本帝国陸軍が発動した徐州作戦、日本軍は21万6,000名を動員し7,500名程度の戦死者を出して開封と徐州を占領、対する第五戦区総司令李宋仁率いる50万~60万の蒋介石軍(何で兵力が10万人単位で誤差が出るのか、おそらく中国はいまだに状況は代わらないと思われます)は、凡そその一割を失いながら撤退、その際、開封とその東側の鄭州の間を流れる黄河の堤防を決壊させました。

蒋介石は当時、漢口にその子飼い部隊(主力精鋭部隊)と共に居ましたが、鄭州から漢口までは一本道(鉄道も敷設されていました)、この街道を日本軍が怒涛の進撃をしてくれば大変と言うことで、「水浸し作戦」で日本軍の出足を食い止めました。

漢口は結局、同年8月に発令された武漢攻略作戦の過程で、日本軍に手中に落ちますが、この黄河決壊劇は蒋介石の「非近代的小中華主義」の欠点を遺憾なく表していまして、自分と己の「身内」だけが可愛いと言う「本音」を吐露して余りあります。

装備を施し教練したら「近代的軍隊」になると考えるのは大間違い、それなら常に倍以上の戦力で会戦に臨んでいた蒋介石軍が連戦連勝の筈ですが、現実には重慶と言う「届かない場所」にたどり着くまで負け続けました。

ここで注目すべきは、米軍将校が練兵だけでなく部隊の指揮も執った、中国とミャンマー国境に展開した「新軍」が、しばしばビルマ戦線で日本軍に苦杯を舐めさせている点で、「近世以前」と「近代以降」では雲泥の差があり、日米将校は「近代以降」だから良い勝負になるのですが、「近世以前」の蒋介石直属部隊は兵の多寡にかかわらず、敗北を重ねていきます。

そもそも開封が敵の手に落ちた段階で、鄭州を固めるか、漢口で待ち受ければ良かったのに、そうしないで堤防を決壊させたところに、艦隊保全主義ならぬ「子飼い部隊保全主義」が見え隠れします。

蒋介石は米軍だけでなく、あのナチス・ドイツからすら軍事支援を受けていますが、日本を含めいずれの国からも「近代」を学びませんでした。

中国が「近代」を理解するのはもっと先です、勿論、毛沢東ではありません。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-09-19 00:06
高句麗は紀元前1世紀に段階で前漢から「高句麗王」の称号を受けていましたが、新の王莽が称号を高句麗「侯」に引き下げたことに腹を立て、命令に服さないでいると討伐を受けた挙句に「降句麗侯」と言う屈辱的な称号を与えられます。

王莽が建国した新は紀元23年に滅び、その後を襲った後漢の光武帝は同32年に称号を「高句麗王」に戻すと宣言しますが、当時の高句麗からすれば、その心の傷は大きく、楽浪郡に朝貢したのが47年、倭の「奴国王」の使節団が光武帝に拝謁したのが55年ですから、後の百済や新羅と比べて日本の方が「先輩」です。

ただ、高句麗は滅亡まで「万世一系」ですが、倭の場合はおそらく、57年の使節を派遣した政権と107年とは別国家で、更に「恒霊の間(146年~189年)」の後、3世紀前半に現われた卑弥呼政権はまた別の代物と解釈すべきで、楽浪郡を含めた四郡と言う「入植地」の向こうには、高句麗を筆頭とする諸勢力が、今の満州地方を中心に割拠し、朝鮮半島は概ね空白地帯、そして政権(王国)が入れ替わりながら海の向こうに「倭」が存在すると言う構図です。


王莽の「功績」は何と言っても四郡の向こうまで服属すべきと初めて主張した訳で、「入植地」と言う「文明」と「野蛮(化外)」を区分する境界線を設定した前漢や後漢政権とは、明らかに一線を画しています。

換言すれば「朝貢」を発明したのは王莽とも言え、後漢が滅びて中世に入ると、「入植地の向こう側」への勢力拡大が中国側の基本姿勢となります。

但し、中世は「軍閥の誕生期」でもあり、つまりは群雄割拠=四分五裂の時代ですので、「向こう側」を服属させる(或いはその意思を実行に移す)ことが出来るのは、短期間でも統一政権が誕生するか、少なくとも「北半分統一政権」が誕生する必要があります。

そして軍閥の集合離散、「四分五裂」なのか「北半分統一」なのか「全国統一」なのかで、満州から朝鮮半島、そして倭を巻き込んだ「東アジア政局(外交)が展開されます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-09-14 23:16
此処では宮崎市定京都大学名誉教授(故人)の歴史観、所謂「宮崎史観」に沿って、後漢滅亡(220年)から北宋建国(960年)までを「中世」、北宋建国以降を「近世」としますが、東アジア全体で捉えた場合、ペリー来航(1853年)で「近世」と「近代」を区切りたいと思います。


古代の東アジアはそれすなわち中国と呼んでも良いほど、春秋から秦漢帝国に至るまで中国の独壇場でした。

前漢の武帝が楽浪郡を含む四郡、すなわち入植地を遼東半島以東から朝鮮半島北部にわたって設営したのも、入植地としてはそこまでが限界で、それより遠隔地(朝鮮半島の殆どと「倭」)は「入植の価値無し」と判断されたことになります。

その証拠に楽浪郡等の設営が紀元前108年、「倭」の使者が後漢光武帝に謁見したと言われるのが紀元57年、時の皇帝に拝謁を許されると言うことは、曲がりなりにも「国家(国王)」を自称し、それを相手側に納得させるだけの状況下に無ければなりません。

つまり紀元前108年から紀元57年の150年間、「倭」は中国側の都はおろか、近くの入植地にまでたどり着く術(航海術、陸路の確保)を持たず、まず「誰が国王を自称するか」を決める「国王称号争奪戦」が繰り広げられいました。

ですから中国側が船を手配したり使節の安全を確保してやろうとしても、交渉する相手が決まっていない状況では無駄です。

その交渉相手が一本化され、「国王」の使いがやってきたのが57年、中国人は遠来からの朝貢や珍奇な相手を喜びますので、曲がりなりにも「島国=海上国家」倭の来貢は大きな関心と反響を呼んだと思われ、だから光武帝直々の拝謁になったと考えられます。

因みに107年にも倭は使節を派遣していますが、これは57年とは異なる政権が樹立されたことの報告及び承認を受けるためで、当時の「倭」としては洛陽まで足を伸ばすのは負担が大きく、通常の遣り取りは楽浪郡を初めとする「入植地」で済ませていたと思われます。

換言すれば、古代中国は「入植地」以遠には領土的興味は無く、強いて言えば高句麗を初めとする「入植地」周辺の諸国との交流がその限界、朝鮮半島の大部分と「倭」は「化外の地」だったでしょう。

換言すれば古代中国は入植地以遠に対し、極めて平和的と言いますか、侵略(入植)の意図はありませんでした。


「倭」のことを尋ねても「倭」自身が分かっていませんから、答え様がありません。

どの程度の大きさの国なのか、その先には何があるのか、分からないものは分かりませんが、黒潮にでも流されようなものなら、二度と故郷に戻れないのは間違いなく、日本海流はある意味「境界線」であり「水の壁」でした。


中国が朝鮮半島と「倭」にとって脅威となるのは中世です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-09-11 10:50

中国史からみた軍閥論

少なくとも後漢の途中から、分権化と並行する形で群雄割拠の萌芽が現われ、後漢末期の董卓も軍閥の領袖と言えます。

その後漢末期(184年、黄巾の乱)から五代十国時代(~960年)を経て、小誌で言うところの「北宋以降(960年)」も、政治的主題は「軍閥を如何に扱うか」だったと思われます。


後漢末期から隋による全土統一に至るまで、中国における正義は「馬上天下を取る」ことであり、「軍閥は国家なり」でした。

それに対し、「北宋以降」の特徴は「軍閥に対する国家の優越」或いは「国家からの軍閥の分離」で、岳飛が何故謀殺されたか、或いは康熙帝が強硬路線と採用して三藩の乱で反対勢力を鎮圧したのか、いずれも軍閥が徴税権や人事権まで壟断し、「国家内国家」を形成しようとしたからです。

従って、共産主義国家の今でも軍閥は中国各地に割拠していると考えるのが自然で、「小中華主義者」蒋介石は「己以外の軍閥は認めない、認めるとしても利用価値があり、尚且つ二等軍閥の地位(=いずれ解体)に甘んじる者のみの帰参を許す」と言う態度は、中央集権と、その他の軍閥の否定及び抹殺と言う点で斬新な考えでしたが、「己以外の全ての軍閥」を唯一の対抗馬である共産党に結集させる副作用もありました。

今の中国では共産党要人と軍閥が結託している筈で、それらの要人を総称して「太子党」と呼びます。(厳密には「軍閥系太子党」で、その他に「裏社会系太子党」が存在します)


中国近世は軍閥を如何に制御するかと言う難題に取り組んだ期間と言えますが、その結論は「異民族の軍事力に頼るに限る」、これが近世を通じて中国の主権者であった「士大夫層=宗族階級=大地主=或いは郷紳」の出した結論でした。

つまり漢民族だけだと民族統一すら覚束ない、国土が分裂してしまう、そこで異民族に「皇帝」と言う名目上主権を与え、実権は己達が「文官として」握るのが一番と言うのが、士大夫層の回答でした。

この「漢民族だけだと民族統一すら覚束ない」と考えなかったのが孫文ですが、現実を直視しないがために民国初期の無秩序時代をもたらしました。

孫文は革命の父かも知れませんが、同時に「無政府状態の父」でもありました。


それに対し、蒋介石と毛沢東は「漢民族には民族統一の能力がない」と言う点で一致していましたが、「だったら諸軍閥を磨り潰してやる」と考えて米国と言う「軍事力に長じた異民族」と手を結んだのが蒋介石で、「国土統一(或いは民族統一)」と言う点では一歩進んでいましたが、「異民族の手を借りる」考えは旧態依然としたものでした。

「来る者は拒まず受け入れる」毛沢東の大連立型政権は、建国直後から己の統治能力の無さを露呈することで、「漢民族だけだと民族統一すら覚束ない」との歴史的教訓の正しさを立証するだけでなく、自らがあらためて軍閥化することで文化大革命を引き起こしました。


蒋介石と毛沢東、そして孫文が残してくれた貴重な教訓、それは「俺達には統治能力がない、だけど権力は欲しい」人間集団は否定されるべきと言う、当たり前の真実です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-09-06 23:45

日本 ~この難儀な国~

東アジアの「近代」の起点を何処に置くか、その外見は兎も角、中国や朝鮮半島が未だ近代に到達するに至らず、それに対し台湾が、蒋介石と言う「前近代」を消化し得た現実を踏まえると、やはり「明治維新」乃至「開国」に答えを求めるのが妥当と思われます。

ただ、そこに至るまでの「近代助走期」を見逃してはならず、開国に至る数十年前から幕閣は、開国とそれに伴う深刻な影響については、腹を括っていたと思われます。

問題は如何に上手に開国するかで、状況次第では開国どころか「亡国」になってしまう惧れも多分にありました。

それ程までに近代「列強」との距離は大きかった訳で、後に長州や薩摩が戦争を仕掛けますが、大英帝国を初めとする西洋列強が、それを口実に日本征服に乗り出さなかったのが、不思議な位です。


開国に際してどうしても譲れない条件、それは「最初の開国相手は英国であってはならない」ことでした。

これは大英帝国が当時の最強国だとかそう言う理由ではなく、フェートン号事件で長崎にて乱暴狼藉を働いたのが、英国船籍だったからで、云わば当時の日英は「潜在的敵対関係」にあったと言えます。

開国に不平等条約が付きものなことは、1840年の阿片戦争以降の中国情勢を眺めていれば分かる話で、「前科者」の英国と最初に不平等条約を結ぶことは論外と言えます。

ですが「最も仲良くしたい、機嫌を損ねたくない」列強も大英帝国で、島国日本を占領する可能性があるのは、やはり「海の覇者」であり、日本が生き抜くための手本、つまり「近代化=列強への変貌」を成し遂げるための必要条件は英国で、ですから「非英国的紳士国家」米国は当て馬に過ぎず、当時の江戸幕府の要人は英米と言う二大海洋国家を手玉に取ったことになります。


兎に角、日本と言う国は開国から現代に至るまで、米英の予想に反する結果ばかり出します。

日清戦争では「日本は善戦するかも知れない」と言う大方の味方を裏切って完勝、列強にとってこの戦争の最高の筋書きは「日清共倒れ、漁夫の利」でしたが、その可能性を抹殺する共に、列強の姿勢を「中国侵略一本槍」に傾斜させるうえで絶大な効果がありました。

日露戦争は大英帝国が後ろ盾に付いていましたから、ある意味で「負けない戦争」でしたが、帝政ロシアの誇る太平洋艦隊とついでにバルチック艦隊まで海の藻屑にして、欧州の軍事的均衡を根本から崩したのですから欧州にとっては良い迷惑で、大英帝国を含め誰も日本に「ロシアに勝ってくれ」とは言っていません。

満州事変で蒋介石の中国全土統一の野望を挫いたばかりか、日支事変(日華事変、日中戦争とも)では「小中華主義者」蒋介石をしても譲れない「中国中枢部」を席巻、ここで大英帝国と「取引」出来る余地はあったのですが、西欧列強と日本「帝国主義」の最大の相違点は、前者が「裕福な列強」なのに対し後者は「常に飢餓感と貧困を伴った列強」で、それだけ妥協の余地はありません。

蒋介石が重慶に逼塞したことで、蒋介石を一種の「代理人」として中国進出を考えていた米国が激怒、ここに「超大国の卵」同士の太平洋戦争が勃発しました。

大日本帝国を屠ることに成功し、超大国の椅子を手に入れた米国ですが、日本を占領した筈なのに「国体問題=天皇助命」問題で占領軍が逆包囲される羽目に、これでは何の為に朝鮮半島南部を支配したのか分からず、身動きできない隙を衝かれて「英国・中国共産党・弱小軍閥連合」に蒋介石国民党政権が敗北、中国を手に入れると言う米国の願望ははまたしても夢と終わりました。

その後も経済大国になって盟主であるべき米国を脅かし、技術や最近では文化面でも一部で米欧を凌駕しつつある日本、第二次世界大戦における対米、対英戦をみる時、仮に大英帝国が「近代」で留まっていたとすれば、太平洋戦争開戦時の日本は間違いなく「現代化」していました。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-09-03 22:26

米英暗闘

中朝関係は「血とべトンで固めた友誼」と形容されることが多いですが、今となってはそれも有名無実化し、それでも表向きはあくまで(軍事)同盟関係にあります。

ですから内実はいがみ合っていても、外圧が加われば「一致団結」するのが建前で、関係に綻びが生じていることを決して表面化させてはいけない義務が、特に宗主国の立場にある中国側に生じるのは已むを得ません。


米国と英国が特別に親密な関係にあると言う通説についても、仮に兄弟だとすればこれ程までに仲の悪い兄弟も無く、表面上は「特別な同盟関係」、でも机の下では足の蹴り合いです。

中国共産党政治局員だった薄煕来氏の夫人の裁判が幕を閉じましたが、英国人実業家殺害容疑と言いますから、英国の影響力は太子党の少なからぬ部分に浸透していたことになります。


欧州人と言うのは面白い発想をするもので、PLO(パレスチナ解放戦線)を長年率いてきたアラファト議長(故人)の奥さんはフランス人、その結婚が「純粋な恋愛」に基づくと仮定しても、フランス側が放っておく訳がなく、PLOは議長の死まで一種の「フランス利権」であった可能性があります。

因みにミャンマーのジャンヌ・ダルク、スー・チー女史の旦那さんは英国人、女史が長年に亘って地名を含む固有名詞を英語読み(ミャンマーでなくビルマ、ヤンゴンでなくラングーン)していたことと偶然ではありますまい。


ミャンマーは米英中角逐の舞台で、太平洋戦争では割って入った日本軍を巡って、米軍将校の指導を受け指揮下にあった国民党系「新軍」に日本軍が苦しめらる一方、当時のビルマから叩き出された大英帝国も、本国人だけで構成される「英国軍」と、指揮官と将校は英国人、兵隊はインド人と言う「英印軍」でビルマ奪回を企てますが、米英間に緊密な連携が存在した形跡は、戦史を読む限り感じることが出来ません。

そして先日まで、ミャンマーは軍部独裁政権、在野の代表格が上述の英国人を夫に持つスー・チー夫人(国籍はどうなるのでしょうか)、その軍部独裁政権の後ろ盾で「表向きの」宗主的存在が中国、但しその窓口が重慶や雲南省辺りだとすれば、その周辺の軍団(軍閥)に英国が食い込んでいたとすれば、これはもうミャンマー情勢そのものが出来レースと言うか一種の八百長、「隠れ大英帝国(英連邦)」と言うべき存在です。

従ってミャンマー側が雲南(或いは重慶)を袖にして北京(党中央)に近づき、同時に民主化に理解をあるところを見せ始めるや、米国がその姿勢を賞賛して国務長官を送り込んだ一連の出来事は、それまでの「ロンドン・ラングーン・雲南(薄煕来前政治局員から習近平国家副主席に繋がる)」枢軸を、「ワシントン(の反英勢力)・北京(胡錦濤政権)」連合が覆したのではないか、そう思われる節があります。


東アジアにおける「近代」とは、最終的に英米角逐の形成に至るまでに、如何にして「近世」すなわち「食われる側」から列強(=食う側)へと変貌を遂げるか、或いはそれを拒否するか、変貌するならそのための必要条件は何かを模索し続けた時代ではないかと思われ、その問いに唯一、及第点の回答を提出したのが日本です。

幾ら真似をしても、つまり「近代化」に邁進しても「己の近代」を見出さない限り「近代国家」にはなり得ず、ましてや「現代」更には今後待ち構えるであろう「超現代」に至ることは夢のまた夢で、韓国が間もなく没落し、中国も近い将来において苦境に至るとすれば、それは両国が「近代」に至っていないからで、皮肉にも無い無い尽くしの北朝鮮の方が「近代の扉を叩く」可能性があります。

そして現在、欧州危機が叫ばれていますが、欧州大陸部すなわちリスボンからモスクワまでの「広義の欧州」は国家経済が軒並み破綻して「焼け野原」になりますが、米国経済の中枢を担う勢力にとっての「終着点」はロンドンではないか、大英帝国及び英連邦解体がその「最終目的」ではないか、昨今の英国系金融機関で相次ぐ不祥事も、オッペンハイマー財閥がデ・ビアス株全て(全体の40%)をアングロ・アメリカンに売却した事実(85%の株主に、残り15%はナミビア政府所有、誰かの傀儡でしょうが)も、最終局面に近づきつつある米英角逐を踏まえるべきではないか、そう思料する次第です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-08-22 00:28
お蔭様で地獄の淵から戻って参りました。

その間、朦朧とした頭で中国近現代史関連書籍を二冊、太平洋戦争関連書物も二冊、読了しましたが、それにしても東條英機、寺内寿一(1946年、獄死)、河辺正三(1965年没)、そして牟田口廉也(1966年没)には一人の日本国民として怒りを禁じ得ません。(この4名だけ例外的に敬称略)

東條と寺内の確執が一方にあり、他方で現地(方面)軍の暴走と言うには余りに稚拙な、要は東條内閣倒閣の動きを封じ込めるためと言う、極めて矮小化された、しかも戦局や戦略とは無関係な発想から、同じ国民の数多の命を、ビルマ戦線で塵芥の如く捨て去り、戦線の崩壊を促した己の責任を感じる様子もありません。

日本にも愚将や凡将はいますが、いずれも統帥下にあって任務をこなせるか否かの問題です。

しかしビルマのインパール作戦はあくまで私的なもの、1943年9月の御前会議にてビルマが所謂「絶対国防圏」の西の砦を担った関係で、同時に一旗挙げたいと言う現地軍最高首脳の「妄想」と、自己保身の汲々とする東條、その東條の失策を待ち望む寺内の心中が交錯して始まった作戦で(だから参謀と名のつく者は、上は参謀本部作戦部長から、下は現地師団参謀まで全員作戦反対)、断じて統帥の則って遂行されたものではありません。

己の都合や思惑「だけ」で兵を動かし多数の同胞を殺しておいて平然としていられるのは、戦場にあっても人間の所業ではなく、悪鬼羅刹の仕業です。

仮にこの4名が靖国神社に納骨されていると言うのであれば、参拝すべきでないと言うのが小誌見解です。


中国関連書籍を読んで感じたこと、「この二冊の索引を徹底して調べ上げ、活用すれば、絶対に国共内戦から文化大革命の終結と言う、中国の退歩最終段階が解明出来る」、逆に言えばそれほどまでに中国のことを知らないまま中国問題に首を突っ込んできたのだから、我ながら度胸満点です。

軍閥は形を変えて今も残っていますし、文化大革命の前段階として劉少奇と鄧小平らが実施した組織の簡素化に伴い、「一生楽に暮らせる」と思い込んでいた「革命戦士」達が整理されたことは、重くみるべきと思われます。

しかし、大躍進政策の端緒はフルシチョフとの意地の張り合いでしょうし、スターリン亡き後のソ連が「修正主義」なのは、毛沢東がスターリンに位負けして頭を下げた以上、スターリンがどんなに憎くとも、批判することは毛沢東批判にも繋がるからご法度、こんな自己中心的な「聖人」や「建国の父」が日本にいなくて良かったです。

中国が共産主義国でもそれはその国の勝手ですが、毛沢東を葬らない限り中国に「近代」は訪れません。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-08-07 15:02

たじろぐ超大国

宮崎市定京都大学名誉教授(故人)によれば、蒋介石氏による執拗な「漢奸狩り」が、汪兆銘政権要人をして中国共産党に走らせ、それが旧満州地区ひいては中国全土の失陥に繋がったとの由で、確かにその点は否定出来ないものの、国民党内部の不満分子や日和見分子の、共産党への寝返り工作に従事したのは間違いないと思われます。


試みにグーグルにて「山西省 軍閥」で検索すると、北洋軍閥の分派として山西派が紹介されています。

その代表的人物は閻錫山、次いで傅作義、前者は後に台湾に逃れますが、後者は国民党から共産党に乗り換えると言う曲芸を演じ、共産党中国建国後は死ぬまで(1974年)水利部長の座に留まり、しかも生前はおろか没後も、あの文革期において名誉剥奪もなければ槍玉にすら上がっていません。

つまり文革時においても山西軍閥は健在で、傅作義に手をつけることは山西派を干戈を交えることを意味しますから、そんなことは毛沢東ですら不可能であったことがうかがえます。

おそらく中国共産党要人を親分(兄貴分)、軍閥を子分(弟分)と「義兄弟の契り」言う形で、党と軍は繋がっていると思われますが、ではこの傅作義に対して兄として「義兄弟の契り」を結んだのは誰か、山西省を舞台にした上党戦役(1945年9月~10月、前号の誤記を此処で訂正、上党は今の長治付近)で活躍した鄧小平か劉伯承、或いはその両名と考えられます。

因みに両者が率いる第二野戦軍は劉鄧軍と別称され、この事実だけを以っても当時の(そして今の)人民解放軍の「私兵」的性格が読み取れます。


上党戦役は後の三大戦役と異なり、地理的にも時間的にも援助を受ける余裕が全くない状況下で、人民解放軍が国民革命軍(国民党軍)系の現地軍閥(=閻錫山)に勝利した戦いで、何故こんな山奥を争奪する必要があるのか、小誌にはいまだに分からぬ場所です。

閻錫山は現地に駐屯していた日本軍の投降を受け入れ、武装解除しています。

そして蒋介石は国民革命軍や国民党系軍閥による武装解除は認め、敵に塩を送る気はないので紅軍による日本軍部隊の武装解除は認めず、日本軍に対し「国民党の軍使が到着するまでは武装解除するな」とまで言っています。

要は「劉鄧軍」が傅作義を抱き込んだうえで、国民党の勢力が及ばない(だから閻錫山が軍閥の長の座にあった)地域で勝利を獲たのではないか、つまり「中国共産党と軍閥の提携=義兄弟の契りの典型例」として考察すべきではないかと思われます。

そしてこの「義兄弟の契り」が蒋介石追い落としの原動力、そして必要条件とすれば、今でも中国軍は「群雄割拠」であって決して「一枚岩」ではなく、「党が軍を指導する」のではなく、「党要人が子飼い部隊を指導する」構図になっていると考えられます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-07-20 23:23

足掛かりを得た大英帝国

沖縄戦当時、大英帝国の手中には、シンガポールも香港も上海も存在せず、空母4隻を主力とする計15隻からなる虎の子の機動部隊も、豪州に置かれた司令部から指揮を受けていました。

つまり豪州の然るべき港で補給を受けたかも知れませんが、英国太平洋艦隊は母港コロンボを発し、寄港することも殆どなく沖縄海域に至った訳で、長距離の無寄港航行は危険であり、船員に多大な負担を課すことになります。

そこまでしてチャーチルが沖縄戦に参戦したかった(米国側とすれば迷惑千万です)理由は、シンガポール、香港、上海に象徴される東アジアから東南アジアに至る大英帝国の権益を死守することですが、そのためには橋頭堡が必要で、それが他ならぬ日本だったのです。


Wiki等によれば太平洋戦争終結後、中国と四国が英連邦軍の占領下に入りました。

主力は豪州軍だったそうですが、大事なのは指揮権の所在、大英帝国軍の実質的指揮下に連邦加盟国は従っていたと思われます。

見逃せないのは呉港に本部を置いたことで、絶好の中継点を得たことになり、おそらく英国太平洋艦隊主力は、此処に停泊したと思われます。


コロンボは無傷としても、日本軍が武装解除した後も今のマレーシア(英領インドネシア)、シンガポールの疲弊と港湾機能の低下は著しく、香港は蒋介石に睨みを利かせながら漸く確保、ですが此処でも植民地としての機能は一時的に麻痺していたと考えられます。

英国のことですから、おそらくオランダと手打ちして蘭印(オランダ領インドネシア)海域での英国船籍の自由航行を認めさせ、「コロンボ→(豪州一時寄港)→呉」と言う経路で部隊の増強や軍需物資の集積に勤しんでいたのではないか、そしてその目的地は上海ではなく山東省(更には山西省)、つまりは中国共産党(系現地軍閥)が受取人です。


歴史的事実だけを並べます。

1945年(昭和20年)8月:太平洋戦争(=日中戦争)終結

1946年6月:国共合作完全破綻、再び国共内戦へ

1946年10月:上党戦役(山西省、鄧小平が一躍名を馳せる)

1947年3月:国民党軍、延安制圧


48年秋:蒋介石、故宮博物院から所蔵品を精選(2,972箱)、台湾に移送

(以下は三大戦役)
遼瀋戦役(1948年9-11月、遼寧省の「遼」と瀋陽の「瀋」と思われる。旧満州地区を中国共産党が掌握)

淮海戦役(1948年11月ー1949年1月、主戦場の一つが徐州、徐州は江蘇省に属するが山東省のすぐ側。長江以北を紅軍が支配下に)

平津戦役(その名の通り、当時の北平=北京と天津攻防戦)

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-07-19 16:45

無い袖を振った大英帝国

「イギリス海軍は、戦後の香港、シンガポールの権益保持のために当諸島で戦闘を展開。相当な特攻攻撃を受けた。」

これはWikiの「沖縄戦」の先島諸島の欄に記された説明ですが、沖縄戦において、確かに「空母4隻(イラストリアス(4月のみ)・ビクトリアス・フォーミダブル(4月以外)・インドミダブル・インプラカブル・インディファティガブル)、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦15隻」からなる大英帝国海軍太平洋艦隊は、米軍隷下の第57機動部隊として沖縄戦に参戦しています。

沖縄戦への参戦はチャーチルがねじ込んだらしく、1945年(昭和20年)4月時点(沖縄戦勃発時点)にこれだけの海軍力を投入すると言うのは、香港、シンガポール、上海と言った「既得権益」死守の表れと理解しても差し支えないと思われます。

因みに英国太平洋艦隊は同国東洋艦隊の下部組織として創設された部隊で、東洋艦隊そのものは(戦後「極東艦隊」と名を改め)1971年まで存続しているのですから、英国人も相当な粘着質です。

その大英帝国の至宝とも言うべき香港、上海、シンガポールは太平洋戦争の終結まで日本軍の軍政下か汪兆銘政権(国民党南京政府)の支配下にありましたので、沖縄戦時点の英国艦隊の拠点は嘗てのセイロンのコロンボ、勿論、米軍からの補給や寄港の便宜は受けたでしょうが、ブルース・フレーザー司令官は豪州で指揮を執っていた事実からも、この時点でコロンボ以東に大英帝国海軍の軍事拠点は皆無に等しかったと言えます。

そしてこれだけの戦闘部隊を展開するには後詰めとして補給部隊が不可欠で、米英はこの時点で中国の戦後処理を巡って火花を散らしていましたから、沖縄戦以降の英艦隊は補給艦の護衛がその主任務だったのではないかと思われます。

そして受け手は遼寧省大連や、山東省の青島、威海衛、煙台と言った軍港と考えられます。

これだと話の辻褄が合います。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-07-10 16:08

鍵は山東省

太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)6月に再開された国共内戦に関し、まず以下の俗説を排する必要があると思われます。


1)旧満州地区争奪戦
日露戦争で南満州鉄道の権益を奪取した日本はその後、朝野を挙げて後の満州帝国に該当する地域に資本投下し、確かに軍需産業や軍事関連物資生産設備も存在していたと思われますが、これらの設備を運営、管理出来るのは日本人だけであり、それに携わっていなかった華人(共産系と国民統計にかかわらず)が、仮にその全てを無傷で入手したとしても、量産態勢に戻すことは不可能である。

ましてや1945年から翌年にかけてソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島確保を目的として、短期間ながら旧満州地区を「往復ビンタ」しているのであるから、日本人が残した工場や施設、生産設備が無事と考えるのは無理がある。

1960年までソ連が技術者を共産主義中国に派遣していた事実は、その時点でさえ技術面で中ソ間に懸隔の差があったと考えると、太平洋戦争集結時点の、特に共産党陣営の自前の技術力の低さは想像を絶するものがあると言わざるを得ず、そんな輩が近代軍需産業を運営、管理するのは不可能以外の何物でもない。

致命的なのは、仮に無傷で設備や施設を手に入れて、それを完璧に使いこなしたとしても、蒋介石率いる国民党軍は、最新鋭かそれに近い装備が施された、米軍将校の指導を受けた部隊であり、満州の軍需産業の生産品はそれに比べて旧式で、勝敗の帰趨は明らかである。

読者におかれては是非、お知り合いの中国人に問うて頂きたいのですが、日本資本が旧満州に残した鉱山や軍事工場の何処が具体的にどれだけ「貢献」したのか、あのソ連の「往復ビンタ」とその後の中国共産党による旧地主階級(≒満蒙族)への拷問及び虐待、虐殺の状況下で如何に「正常かつ高稼働率で」運用管理出来たのか、工場や鉱山別そしてそれを運搬する鉄道の運行状況を教えて貰いたいものです。


2)米軍物資横流し説
紅軍(人民解放軍)が米国製最新兵器を独学で使いこなせるかどうか(日本人は出来ます、だから朝鮮戦争の際に後方の物資供給拠点となりえたし、米軍基地で働く横須賀と佐世保の日本人従業員が存在しなければ、今も昔も第七艦隊はその稼働率を維持し得ません)は別として、戦局を左右するだけの軍需物資を如何に移送し得るのか、陸運(鉄道)は通常、勢力が拮抗する地点で途切れますし、水運も然り、空運に至っては言わずもがなで、唯一大量輸送が可能な水運(水利、河川交通)にしても、それならば主戦場は黄河や長江をはじめとする中国大陸を東西に貫く河川沿いに展開させ無いとおかしいが、現実に共産党勢力は北から南に攻め入っています。


3)ソ連後援説
西安事変の際でさえ蒋介石の無条件釈放を強要したスターリンが死んだのは1953年、そのソ連と国民党政権の間に1945年8月14日に中ソ友好同盟条約が締結され、ソ連軍は国民党政権の了解の下に満州を「往復ビンタ」したけれど、所期の目的たる朝鮮半島北部確保の後は、約束通り短期間で終えています。

スターリンが蒋介石を評価していた最大の理由はその「小中華主義」、具体的には外蒙古に於けるソ連の優越権を実質的に認めていたからだと思われます。

勿論、蒋介石政権が外蒙古の覇権を脅かすほどになれば話は別ですが、早くから「外蒙古は中国のものだから返せ」と言い続けた中国共産党を支援する理由は、スターリンにもモロトフにもありません。


4)ビルマ経路支援説
この点では小誌も今になってその誤謬に気付きましたが、まず第二次世界大戦中のビルマ戦線は、米軍将校が指導し装備も施した中国人主体(国民党系)の「新軍」と、英国軍及び英印軍(将校は英国人で兵卒はインド人、所属は勿論英国)で受持ちが分かれていました。

中国とビルマ国境で、結構日本軍を悩ませたのが米軍系「新軍」で、英国系部隊は「神速」の日本陸軍になす術も無くビルマを手放すことになりました。

その後、ビルマを奪回した大英帝国ですが、そこから中国共産党を支援するのは、空路であれ水運であれ陸路であれ大量輸送は無理ですし、それが可能であったとすれば延安の更に奥地から反撃することになりますが、現実にはそうなりませんでした。

鍵は山東省にあると思われます。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-07-10 00:50
大日本帝国を屠って「傀儡」蒋介石と共に、中国も丸ごと頂戴しようと言う米国の思惑は、最初から蹉跌をきたします。

無条件降伏した筈の大日本帝国臣民が、老若男女を問わず「天皇助命」を求めて無数の書状をGHQとマッカーサー元帥宛に送付、おそらく暗殺されれば良いと思って始めたのでしょうが、天皇陛下の「地方巡幸」は、君臣一体となった時の日本の強さを米英占領軍に植えつける結果となりました。

占領軍は最大で43万人に達したそうで、急増の一因は朝鮮戦争にあると思われますが、それ以前からも相当数の米軍は占領軍として日本に駐留していた筈で、場合によっては占領軍が旧大日本帝国臣民が逆包囲される事態も起きかねませんでした。

天皇が東京裁判で裁かれるとわかった瞬間に、占領軍は数千万人単位と言っても過言ではない歴戦の勇士に取り囲まれ(兵士は武装解除するだけでは駄目、会田雄治氏もアーロン収容所で監視下に置かれました)対峙することになりますし、地方巡幸で天皇陛下に万が一のことがあれば、その日本国民の怒りはマッカーサーに向けられます。

一方で本国からは兵士帰還の矢の様な催促が着ますし、これでは朝鮮半島南部経由で先発隊を派遣することも不可能になりました。


この千載一遇の好機を最大限に生かしたのが英国で、沖縄戦役に英国が虎の子の艦隊を派遣したのは、表向きは「連合国としての義務」でしょうが、本音は「中国における既得権益死守」だと思われます。

米軍が日本と言う泥沼に足を取られている間、英国は何をしていたか、ひたすら兵器を運んでいたと思われます。

それも中央突破で、ビルマ経由は小誌の誤りです、英軍は東シナ海を通って紅軍に軍事補給していた筈です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-06-19 16:59
孫文も含めて絶対的に「否」です。

1840年以降の中国史は「近代に触れた時期」に過ぎず、それ以前の乾隆帝末期から腐敗は極致に達し、歴史そのものは「退化(或いは「退歩」)」過程に突入します。

その間に中国は多種多様な「近代」と遭遇しましたが、いまだに「近代」とは何かを消化し切れないまま、今に至っています。


少なくとも1931年の満州事変勃発以来2013年に至るまで、中国はその領土の主役ではありませんでした。

それまでに北伐を終えて国土の中枢部を押さえた蒋介石が、従前の弱腰を捨てて奉天軍閥の継承者張学良を焚き付けて現地日本軍を追い出そうとしたのは、決して荒唐無稽ではありませんでしたし、義和団以降は列強各国が北京や天津に駐屯軍を派遣していましたので、国土中枢部の完全掌握のためにはその最大の後ろ盾的存在「関東軍」を追い出すことが先決でした。

張学良軍の装備は関東軍に左程見劣りしませんでしたが、「近代」軍事思想は装備の優劣や兵力の多寡を超越しているところにその特徴があります。

当時の大日本帝国の軍事思想が如何に最先端を行っていたかを示すのが、1937年の日華事変(日支事変、日中戦争とも)で、翌年10月には武漢三鎮を占領、重慶に退いた蒋介石には「前近代的軍隊を雲霞の如く参集させても、近代軍の前では無駄である」ことが理解出来なかったと思われます。

但しこれに激怒したのが太平洋の反対側の「超大国の卵」米国で、蒋介石を使って中国に利権を打ち立てようとした矢先に全てを日本に持っていかれたのですから無理はなく、悪い様にはしないから早く話をもってこいと日本に(心の中で)言い続けたのが、初期型列強「海の王者」すなわち当時の大英帝国です。

ここで「第二次日英同盟」が成立していたら世界史は確実に変わったでしょうが、「食えないから大陸に活路を見出すしかない」と強く信じていた大日本帝国(特に臣民)に対し、それは馬の耳に念仏ですし、日英同盟を破棄した大英帝国を恨んでいるのは当然で、しかも大英帝国には日本を黙らせるだけの「手土産」がありませんでした。

それ以降は太平洋戦争終結時まで中国中枢部は日本が掌握し、蒋介石は重慶に逼塞、延安の毛沢東はその他の弱小財閥並みに論外、そして日本支配地域が平和と言う状況が続きました。

そして昭和20年(1945年)8月15日時点、戦いに敗れた日本は中国争奪戦から脱落、朝鮮半島北半分(38度線以北)を確保したスターリンのソ連も、蒋介石率いる国民政府と事実上の不可侵条約を結んで欧州での勢力伸長に専念します。

残るは、国内においては蒋介石の国民党軍と、毛沢東の紅軍も含めた無数の弱小軍閥、国外の強国は蒋介石を後援する米国と、中国の利権確保に躍起の英国です。


英国外軍は沖縄戦に参加しています。

担当海域が宮古島、八重山付近ですので直接には参戦していないと言えますが、まだ欧州戦線が集結していない昭和20年4月1日時点で、空母4、戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦15から成る「虎の子」とも言える機動部隊を派遣しているのは、日本が憎いからではなく「香港、上海確保」が目的と思われます。

米国はその後、橋頭堡として朝鮮半島南部を確保し、天津から北京の制海権を事実上把握します。

ソ連も退いたことだし、蒋介石軍が全て片付けるまで北京を実質的に抑えて、その後衛に徹していれば中国は己に手に転がり落ちる、これが米国の考えではなかったかと考えられますが、ここで「神風」が吹きます、米国にとってとんでもない逆風の、英国にとっては千載一遇の神風が。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-06-15 13:51
歴史を振り返る時、「古代→中世→近世→近代」と言う時代区分は決して誤りではありませんが、近代だけは厄介な代物で、とんでもない時代にひょっこり顔を出したりします。

近代の定義そのものが難しいのですが、例えばカエサル(シーザー)の時期の古代ローマ帝国は、控え目に言って近代的色彩が極めて濃厚で、ライン河に橋を架けて対岸の蛮族(ゲルマン民族)を驚かせた一件をみても、退化過程に入る前の古代ローマ帝国は優れて近代的です。

鎌倉幕府成立以降を中世とみる小誌の立場から言えば、織田信長が生まれて生きた時代(1534年~1582年)は、中世の分裂傾向がその極致に達した時代で、信長の属する織田家自身が、征夷大将軍(室町幕府将軍)の管領斯波氏の守護代の織田家の分家の家柄(だったと思う)と言う、下克上を体現した様な人物です。

征夷大将軍にしても授けられる官位はそれ程高くないのが通例で、天子との間には相当な距離がありました。


当時は公家、武家(武門)、寺家(寺門)からなる権門体制の崩壊過程にありましたが、崩壊し切っていない政治体制ほど被統治者を疲弊させるものはなく、発想は旧体制に縛られることになります。

ですから織田信長の存在が際立つ訳で、その存在が近代そのものです。


まず「天下布武」、すなわち武力による、そして武門による天下統一です。

次に楽市楽座、簡単に言えば既得権益の否定です。

兵農分離に伴い「誰でも武士(兵士)になれる」ことで、領民に武具と兵士と言う職業を与えました。

出自による立身出世の制限は羽柴秀吉や滝川一益の出現で否定されましたし、明智光秀の登用は余所者意識を払拭するに十分でした。


「中央集権志向」、「既得権益否定」、「兵農分離に伴う兵士と言う職業の領民への開放」、「出自に関係なく出世街道の開放」、「余所者登用=同胞意識の醸成」、これだけ近代的要素を備えた人物は近代でも稀です。


特筆すべきは「肉親愛、兄弟愛」で、家督簒奪を試みて己に刃向かった弟は消していますが、一向一揆に殺された弟に対する愛情は深く、後の長島一向一揆に対する「根絶やし」はこれに対する報復です。

当時は兄弟や親子ほど信頼出来ない者はなく、応仁の乱の導火線も「親兄弟との不和」でした。

信長は従順な者や抑圧された者に対して驚くほど優しい面があります。

その代わりに抑圧者=既得権益層に対しては容赦なしで、支配階級の全てを敵に回した感がありますが、それら抵抗勢力を打ち破ったのは、既得権益層に対して嫌悪感を抱く人々が負けず劣らず存在したことを物語っています。

ですから寺門は全て粛清対象、武門も征夷大将軍を頂点に置く古い思考の武家は全て敵、公家とは激突していないですが、宣旨を受けないと言う嫌がらせをしています。

(織田信長については同時代の世界情勢の中で論じるべきと思われますが、今は敢えて触れません)


本願寺は勅願寺です。

勅願寺と言うことは天皇(天子)の意向を尊重する傾向が強いです。

織田軍と石山本願寺との激突は、先に織田方が矢銭を要求したとはいえ、奇襲をかけたのは本願寺の方で、天皇(或いは治天の君)の意向をある程度知っておかなければ出来ない軍事行動です。

つまり本願寺側は朝廷が少なくとも好意的中立を堅持すると踏んだ訳で、その通りでした。


織田信長が挑んだもの、それは権門に象徴される中世と、その各々の権門が頂点に戴く朝廷と言う、古代すら携えていた「従来の日本そのもの」でした。

そして信長、豊臣秀吉、徳川家康と試行錯誤を続けた結果が、「中世に近代を放り込むのは無理があるので、近世まで時代を引き戻す」でした。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-06-05 23:20
小誌も「北宋以前」と「北宋以降」の時代区分を採用していますが、北宋の成立を以って近世への移行と断ずるならば、中国はその後、地力で近代に突入する機会が訪れたのかと問われれば、小誌は「その機会は存在したが、地力での試行錯誤は死産に終わった」と答えたいです。


近代の特徴は「寛容と解放(開放)」、それを下地とした「同朋意識」にあると言うのが小誌持論です。

同時に「北宋以降」の中国の政治体制を、「形式上皇帝絶対主義、実質的宗族主権」と規定しています。

とすると「北宋以降」で「寛容と開放を通して同胞意識の醸成」を、意識的か否かは別として目指した時点で、中国は「近代への切符を手にする権利」を獲たことになります。

未だ近代の扉を叩くことが出来るかどうかの状況にある今の中国ですが、過去に大きな飛躍の好機が目前にまで迫っていました。


もうお分かりだと思いますが、「王安石の改革」です。


北宋建国(=近世成立)が960年、山川左翼欽定世界史教科書に従えば、1069年に「王安石の改革」が始まったことになりますが、この時代の中国からは実の多くの教訓を得ることが出来ます。

まず皇帝(神宗)と宰相(王安石)が全面協力して始めた改革にもかかわらず成功しなかったどころか、結果的にせよ後世に禍根を残したこと、換言すれば建国100年余りで宗族階級=官僚層=士大夫階層=大地主の既得権益は揺るぎ無い物になっていたと同時に、100年と言う期間は権力が腐敗するのに十分であることを物語っています。

次に諸策の詳説は省きますが、欽定教科書にも「農民や中小商工業者の生活安定と生産増加をはかりながら」とある様に、自作農と周辺商工業者に対し権力の門戸を開放する意図が明白であることから、「王安石の改革」は近代化への助走であったことがうかがい知れます。

同時に既得権益の一部譲渡である点でも「近代的」であり、これも欽定教科書から引用すれば「地主や大商人の利益をおさえて(中略)、反発する官僚たちも多く」と、既得権益と主権の存在場所を指し示してくれています。


中国の悲劇は「王安石の改革」が近代的色合いが濃厚であったにもかかわらず「革命」ではなかった点で、近代成立の必要条件「革命を経ること」を持ち合わせていなかったことにあります。

しかも「内部で国家権力を二分してはならない」と言う簡単な政治的命題を理解するのに多大な政治的損失(=新旧抗争とそれぞれの政府並立状態)を重ねた挙句、近代的要素の詰まった「王安石の改革」を全否定し、「(異民族支配型)近代大国」への道を選択してしまったがために、このままでは絶対に近代へたどり着けなくなりました。

小誌は「北宋以降(960年)」から「乾隆帝退位(上皇襲名、1795年)」までを「近世」とし、1975年から辛亥革命(1911年)までを「近世退化前期」、中華民国成立(1912年)から胡耀邦総書記就任(=文化大革命からの訣別、1982年)を「近代退化後期」、更に今(1912年)に至るまでを「最終試行期」と規定しています。

つまり最終試験を受けている最中で、これを逃せば近代は夢のまた夢です。


これに対し中世から一気に近代を目指したのが日本で、この「近代の予行演習」があったから「本番の革命=明治維新」も成功させることが出来ました。

小誌は元和偃武(1615年)を以って日本の近世の始まりとしてますが、それ以前に一時期、「近代」が人間として存在していました。

ご推察の通り、織田信長です。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-06-02 00:38
僚誌を含め小誌では、近代に誕生した列強を、海上(航路網)を重視する大英英国型を「海の覇者」、鉄道と言う「大量陸上輸送機関」を何よりの切り札とした、帝政ドイツに象徴される列強に「陸の王者」の枕詞を添えてきたのはご存知の通りと思料致します。


最初に出現したのが「海の王者」で、大英帝国の先輩格はオランダと言えるでしょうか、海上支配(航路網確保及び拡張)によって支配領域(植民地)を拡大すると言うのがその特徴です。

遡るとスペインやポルトガルと言った「日没することなき国」の原型が存在しますが、これらは「近代に至る前の海の王者」で、外見は似ていますが、スペインの本質は陸軍国家(陸上国家)、地中海貿易が峠を越えると共に、外洋進出に活路を見出す腕利きの船乗りに「ヒト、モノ、カネ」を支援したに過ぎず、ポルトガルも陸では食えないから「出稼ぎ」に向かったのが実情でしょう。

ですからスペインとポルトガルが獲得したのは自分より遅れた段階の地域ばかりで、スペインで言えば今のブラジルを除く中南米とフィリピン、ポルトガルはブラジルの他にアフリカ大陸南部の一部の沿岸地帯でした。

そもそも当時は史上屈指の「近世大国」オスマン・トルコの攻勢の前に、欧州全体が為す術がない状態で、ハプスブルグ系国家のオーストリア(墺)は陸上で、同じくスペイン(西)は地中海で、その侵略を食い止めるのが精一杯でした。(少なくとも1492年時点のスペインが血統的及び家柄的に、ハプスブルグ系と呼んで差し支えないか忘れましたので、このまま暴走します)

しかもブルボン王朝(仏)がトルコと同盟、理由は「ハプスブルグ系国家の繁栄が憎いから」、そんなこと言っている場合ではないのに。


北アフリカがイスラム勢力下にあると言うことは、ジブラルタル海峡の向こうはスペイン、つまり最前線に位置していた訳で、何かの拍子にジブラルタルへ強行上陸する術をイスラム側が持てば、スペイン(そしてポルトガル)は即死、オーストリアは退却の連続なのにブルボンが後ろから「闇討ち」してくる、これを世間では「切羽詰った状況」と言います。

ですから結果的に「大航海時代」を歴史用語として使うのは間違いなく誤用で、正確には「大夜逃げ時代」です。


両ハプスブルグとブルボン、それにオスマン・トルコが近世の段階に達したとして、個々の能力に大差なければ後は「量」の勝負、そして「両ハプスブルグ+ブルボン < オスマン・トルコ」ですから勝敗の帰趨は明らかです。

同時に英国の危機感も深刻だったと思われ、相手との距離も重要ですが、相手が神経質なほど危険な仮想敵国です。

夜逃げするにしても「故郷恋しや」は万国共通、「失地回復」にはなるべく近い方が良いですし、島国だと「専守防衛」に徹して他日を待つのに好適です。

つまり仮想敵国首位は臨戦態勢の西ハプスブルグ、最短距離だが少し呑気なブルボンは第二位、立地的には無理にみえるがバルト海に血路を求めれば理屈のうえで「ノルマン・コンクェスト」ならぬ「ハプスブルグ・コンクレスト」を敢行する可能性は否定出来ず、これが第三位です。

要は近世の「海の覇者」なんて多寡が知れたもので、その証拠に日本(江戸幕府)から突然「もう来るな」と言われて引き下がらずを得ず、「現地高官のお目こぼし」と言う形でポルトガルはマカオを「租借」し、後世の「レニングラード(スターリングラードだったかも知れない)死守戦」のお手本となった戦いを披露し続けたオスマン・トルコには軍事思想で遅れを取っていますから、近世と言ってもオスマン朝の方が遥かに先駆しています。


これが近代「列強」になると状況は一変し、オランダは蘭印(≒インドネシア)を植民地として領有しながら新大陸北米では英蘭仏の巴戦型獲得戦争に持てる力を注ぎ、大英帝国は言わずもがな、中世型大国全て(トルコ、インド、中国)全てを叩きのめしました。

余談ながら小誌見解では、フランスは「劣った近代列強」です。

昭和20年には仏印(≒ベトナム)で、その10倍に達する兵力を保有しながら、現地大日本帝国陸軍の吶喊攻撃に腰を抜かしてそれこそ無条件降伏、武装解除を余儀なくされました。

圧巻は勿論ディエンビエンフー、白人宗主国正規軍が有色人種民兵に全面降伏、相手に強力な後ろ盾が居たとか、補給面でその後ろ盾圧倒されたとか、そんな言い訳が通用しますか、「列強」の世界で。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-05-23 01:49
まず後発組や脱落組或いは「退化組」が全面的に承服しなければならないこと、それは「今は現代社会だから自分達も現代を生きている」と言う稚拙な錯覚すら克服していない己の立場そのものであり、「接触した相手が近代国家だからって、自分は近代に到達しているとは限らず、同時代に古代、中世、近世、近代、現代が並立して存在すること決して不可能ではないと言う、簡潔な事実です。

その意味でセポイの乱をインドの独立戦争であるかの如く扱うのは断じて間違っていますし、日本では「四つの近代化」と訳していましたが、それを当時の共産党中国の当局が「四つの現代化」と言うのは、見栄を張りたかったのでしょうが、近代の扉すら叩いていないのですから、日本側が正しく、中国側の表現は自己満足と自己陶酔の産物に過ぎないと言えます。

近代を理解するには、その国や地域を近代に導いた幾つかの「革命」を考察すると浮かんで参ります。

結論から申し上げますと、それは「寛容」と「解放(開放?)」です。


米国独立革命(米国独立戦争)の背景には、本国人の植民地人に対する度し難い蔑視がありました。

本国の側から言えば、白人系植民地人は「二級臣民」であって、本国の「一級臣民」やそれ以上の立場の人間からすれば、非白人系みたいに奴隷じゃないだけ有り難く思えと言うのが本音だったでしょう。

後述しますが、産業革命と並行する形で近代化を成し遂げつつあった大英帝国でしたので、この時点では「近代列強」と「寄せ集め集団」でした、しかも内部に王党派を抱えながら。

鍵は民兵にありました。

殖民地住民が自発的意思で兵器を携えて戦いつつ、指導者は来るべき将来像を構築すべく会議を重ね、「ステイツ」つまり国家の上に「連邦国家」と言う概念を「発明」しました。

そしてその過程で、民衆の蜂起を受けてこの「独立革命」は始まり、「ステイツ」が結束して独立と革命と言う果実を死守した、だから「ステイツ」を跨いだ「インター・ステイツ」(こんな用語あるかどうかは知りませんが)、東部13州の一体感と連帯感が生まれました。

つまり様々な制約(この時点では、地理的には東部13州のみ、そして白人系のみ)がありますが、「俺もお前も同じ国民、同じ立場の同胞」との意識が醸成されないと近代は決して訪れません。

近代は個人に高い技術の修得とその前提となる高水準の学習を要求しますが、「あいつ等は二級の連中だから別物」と言う考えで排除していきますと、「近代的個人」の候補者はどんどん減って行きますから、その考え方は駄目、どんなに制約が存在してもその内部では誰もが等しいと言う「寛容」、そして国家が得た知識の全面解放を通じてそれを無理にでも咀嚼させて「近代的個人」を大量生産させること、これが近代の大前提です。

次は明治維新と英国の囲い込み運動に触れる必要がありそうです。

(続く)
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# by dokkyoan | 2012-05-18 11:18