世を毒する言動、空疎な報道・社説・論説等に遠慮仮借なく鉄槌を下します。


by dokkyoan

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地方巡業 ~承前~

連合軍の占領下にあった日本において、たとえ皇居におられようと、暗殺を含め昭和天皇の殺害は比較的簡単な作業でした。

それをしなかったのは戦犯として裁く心積もりが戦勝国側にあったから、そしてこれを身を挺して阻止したのが日本国民でした。

あくまで表向きながら、大日本帝国憲法に基づき、当時の帝国臣民に対し戦えと命じた天皇を、戦地に赴いて(或いは民間人も含めて)死ねと言った天皇を擁護したのは、帝国臣民から日本国民に衣替えした我等の父祖(同胞)でした。

実際は「食うために、生き延びるために、持たざる国から持てる国へと変貌するために大陸侵略已む無し」とする帝国臣民と、「戦争をすれば必ず敗れ、そこ苦痛は数倍する」と考える昭和天皇は、逆の意味で鋭く対立していたのですが、ではいずれが正しかったかと言えば「両方が正解」でした。

だからこそ戦後に、「繁栄」と「平和」の両方を日本は手にすることになるのですが、それは統治者(天皇)と被統治者(国民)が手を携えていることが大前提となりますが、その命を以て今日の発展の礎を築いた我等が先人に対して、敬意と感謝の念を持ち続けることは必須と信じます。


GHQに続々と届く「昭和天皇助命嘆願書」を観て、連合軍構成国、殊に米英は異なる印象を持ったと思われます。

そのまえに両国の立場の違いを確認しますと、朝鮮半島南部に軍政を敷いた米国は、中国の河北や直隷地方に軍を進めることは可能ですが、英国としてはそれをされると中国経営は水泡に帰します。

英国にとって幸いなのは、米国が「人道的」で「列強如き野蛮な行為」を忌み嫌う傾向にあることで、相応の口実がなければ出兵の可能性は低いですし、出兵出来ない様にするのが上策です。

日本で泥沼状態に陥れば良いのですが、一部の地域は英国の占領下にあったのでそれは得策ではありません。

とすると「日本を平穏な状態に置いたまま、米軍を身動きが取れない状態にする」が望まれます、しかも米国も納得する形で。

此処から英国の渾身の外交が始まります。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-26 12:00

昭和天皇地方巡業

太平洋戦争終結時の東アジア情勢を眺めれば、敗退した日本軍は中国大陸から撤退する一方、その「空白地」を巡って、蒋介石率いる国民党と中国共産党が争奪戦を演じていましたが、戦力で圧倒する国民党が「旨み」のある場所を確保したのは当然と言えましょう。

しかも「旨み」のある場所と言うのは英国の租借地や租界である場合が多く、既に汪兆銘政権がその多くを回収していますが、日本の敗北と共に汪兆銘政権(厳密には国民党南京政権)は崩壊していますから、それを再び蒋介石が回収することになります。

しかも後ろ盾たる米国はソ連と手打ちして朝鮮半島を分割し、南半分に軍政を敷いて睨みを利かせる一方、不凍港の獲得とウラジオストック等の極東主要都市の緩衝地帯確保が目的のソ連は、朝鮮半島の38度線より北側を手中に収めることが確認出来るやいなや、必要最低限の戦力を残し満州地区からすらも兵を引きました。

この間、「租界及び租借地処分」についても「朝鮮半島処分」についても、英国は相談に与っておらず、云わば「蚊帳の外」に置かれていましたが、当時は疲労困憊のうえに欧州経営を巡ってソ連との激突が予想されていましたから、極東(と言うか中国)の重要性は認識しつつも、そこに力点を置く状況にはなく、過日の同盟国日本は敵国であり敗戦国で、しかも全く余力がなく今を生きるのが精一杯でした。

不思議なことに反共産主義感情の最も強い米国が、少なくとも終戦直後に主敵としたのはソ連ではなく英国で、蒋介石を介して中国における英国利権をごっそり手に入れる算段だったと思われ、このことから分かる様に、米国も紳士ぶってはいますが立派な列強です。


戦後の日本は「神風が吹いた」としか言い様のない経済的発展を達成しますが、その前提として政治面で神風が吹いて奇跡が現実のものとなった事実を忘れてはいけません。

まず占領軍を6年で「追い払った」訳で、勿論、武力によってそれを達成した訳ではないですが、これ以上占領下に置くよりも独立させた方が得策との計算が、それを許した方に働いたのは事実ですし、それが可能だったのはソ連軍が駐留していなかったから、つまり二大超大国の一方が日本に対し全く影響力を発揮出来ない状況にありました。

米国だって狙いは中国における経済的収奪及び勢力圏への組み入れであって、日本はそのための道具か足掛かりに過ぎず、ですから当初の扱いはぞんざいなのですが、敗れた筈の日本国民がGHQに向かって「天皇助命嘆願」を続々と送り付けることによって、ポツダム宣言であれだけ揉めた「国体の護持」の保証を占領下で受けることになりました。

天皇助命はおそらく自然発生的なもの、少なくとも陰謀論で語るには無理があると思われますが、日本国民の行動をみた米国は怯えると共に一定兵力の日本駐在を決定せざるを得なくなり、それが大陸経営の躓きの第一歩になったと言えますが、逆に「日本はまだ使える」と考えたのは英国だったと考えられます。


昭和天皇の地方巡業は日米英の思惑が入り乱れる形で始まったと思われますが、発案者は英国ではないか、そう考えるとエリザベス女王即位時の英国王室の当時の皇太子に対する待遇や、あのダイアナ妃の来日パレードを無理なく説明することが出来ます。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-25 16:43
これは日本が変なのか英国が酔狂なのか、俄かには判別し難いですが、ダイアナ妃夫妻(と言うかチャールズ皇太子夫妻)が来日し、皇太子妃を一目観ようと沿道に9万人の日本人が詰め掛ける中、パレードが行われました。

美智子様(今の皇后陛下)のご成婚パレードも凄かったですが、これは皇室つまり日本国の出来事であり、海外には無縁の話ですが、ダイアナ妃のパレードは「戦勝国の国家元首の息子夫妻が、敗戦国に赴いて熱烈な歓迎を受けながらパレードの重責を果たした」ことを意味します。

ダイアナ妃夫妻は英国と日本以外でパレードをしたかは存じ上げませんが、母国は兎も角、日本でする義理もなければ必要もない、ですが敢えてそれを実行に移したのには、それなりの利点があったからだと思われます。


前回、「昆布の道」と「阿片の道」を取り上げましたが、薩摩については「砂糖の道」も考慮する必要があるのではないか、勿論、日本国内でも奄美或いは琉球産砂糖が流通したかも知れませんが、中国に売り捌いていたのは大英帝国の商船ではないか、と言いますのも「阿片密輸の中継地点や船舶の停泊地」かも知れませんが、琉球や奄美は特産物砂糖の産地でもあり、それを売り捌かない手はないと思われます。

つまり薩摩は大英帝国一辺倒で、これに対し幕府は「紳士的=非列強的」な米国と最初に修好通商条約を結ぶことで、有利な条件でその他の列強とも開国することに成功しました。

しかも幕府は開国後、最も重視したのが対英外交であり、これは当時最強の列強が大英帝国ですから当たり前です。

但し、幕府は開国に消極的でしたが、薩摩は既に開国状態にあり、阿片戦争も煎じ詰めれば「大英帝国の要求通りに清朝が開国するかどうか」を巡っての争いでしたから、隙あらば鎖国(孝明天皇は日米和親条約の線にまで戻すと言う幕府案に賛成していた)を狙う幕府に加担することが出来ず、尊皇攘夷で幕府案を潰す一方、倒幕の暁には全面開国すると言う薩摩案に乗りました。

ですから尊皇は言ってみれば大英帝国のお墨付き、君主制は同じ政治形態を望むもので、特に共和制はあの米国が採用した制度ですから違和感と不快感が拭えません。


ダイアナ妃を日本人は熱狂的に受け入れましたが、これだけの影響力を持つ米国人(特に女性)が存在しないのは米国が共和制だからで、英国はその政治的資産を日本から世界に発信しました、「英国未だ侮り難し」と。

勿論、それ以外にも具体的な国益が絡んでいると思われますが、戦後間もない時点でのエリザベス女王即位式典に当時の皇太子(今上天皇)が招待されたのも異例と言えば異例で、日英間には恩讐を越えた何かがあるのかも知れません。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-20 13:25
以前読者からご教示頂いたが、中国人的感覚から言えば、毛沢東にとっての「義兄弟」的存在と言えば周恩来だそうで、中国人の間ではこの点について異論の余地はないそうですが、この義兄弟、お兄ちゃんの方が何度か弟を粛清しようとしていますし、利用しつつも常に隙あらばそれを衝こうとする「辛い」間柄でした。


周恩来が属する周一族は、毛沢東からも紹介席からも酷い仕打ちを受けましたが、これは周家が胥吏階層の名家(と言うより「元締め的存在」)で、必然的に羽振りが良かったことも影響していると思われます。

魯迅(筆名)も一族の出身で、その弟に周作人がいますが、この人物は太平洋戦争終結後に蒋介石が実施した一連の漢奸裁判の中で「文化漢奸」として裁かれています。

その罪状も「日本の占領下において教育機関の要職に就いた」と言う、言い掛かりでしかない様な罪状で懲役14年(後に10年に減刑)の実刑判決を受けました。

ついでに言えば、周作人の悲劇はまだ続き、文化大革命の際に魯迅未亡人が槍玉に挙げられた際の「罪状」が、漢奸たる周作人の面倒を観たというもので、国民党総裁の蒋介石が与えた「漢奸」と言う不当な刻印を、文革派の連中は臆面もなくそれを無条件に認めて相手を攻撃しています。

つまり毛沢東を初めとする文革派が如何に周一族を憎んでいたか、その没落を心待ちにしていたかが分かる話です。

周恩来と蒋介石は結構近い関係にあるのですが、周作人に「文化漢奸」の烙印を押した瞬間から両者は不倶戴天の敵になったと思われます。

ですから「文化」大革命が始まった時、最終的な標的は己であると周恩来なら理解していたでしょうし、この名称を用いた毛沢東もそのつもりだったと思われます。

文革を開始するにあたって、毛沢東(党及び裏社会)、林彪(軍閥)、そして周恩来(国務院及び胥吏)は互いに攻撃しないことで手打ちしたとの説もあるが、周恩来が真に受ける筈もなく、周恩来が胥吏階層の元締めの家柄ならば、その大番頭に相当するのが宋平であると小誌は睨んでいるが、その宋平が赴任する甘粛省に旧宗族階級を含めた名家の子弟を匿うと言う巧妙な策に出ました。

文革はそもそも劉少奇に象徴される旧宗族階級に対する毛沢東の憎悪が、国家経営の失敗の責任を取る形で一線から無理矢理退かされたことで血で血を洗う権力闘争の形を取ったのですが、毛沢東の狙いは旧宗族階級を根絶やしにし、返す刀で周恩来を粛清するつもりだったのでしょうが、周恩来は文革派のふりをしながら最初の標的たる旧宗族階級に対し秘かに支援していたと思われます。

つまり己の出身階級を守るために旧宗族の連中を文革派にぶつけた訳で、死に物狂いで対抗して貰わないと困るから、名家の子弟は預からせて頂いた、つまり「人質」な訳で、宋平の庇護の基にあった胡錦濤氏や温家宝氏が周恩来氏に冷淡なのも、おそらく一族を矢玉の盾にした恨みがあるからと思われます。

その内に毛沢東と林彪を離間させたのは周恩来でしょうが、それにしてもこの義兄弟、辛すぎます。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-19 17:15

回天資金

近世中国を蝕んだ最大の癌の一つが阿片(麻薬)であったことに異議を挟む余地は少ないと思われますが、その災禍は今も解消したとは考えられません。

これは文革時代の話ですが、林彪だったかそれに近い高級幹部が阿片を喫煙し過ぎて「役立たず」になり、夫人に愛想を尽かされたと記憶していますが、これは軍関係者にとって阿片は入手が簡単な代物であったことを物語っています。


中国に限らず日米を含め世界各地で麻薬や覚醒剤が蔓延しているのは紛れもない事実で、マリファナ等の「軽度な」麻薬の合法化の動きもありますが、これって「地獄への入口」をお上が公的に容認する様なもので、軽度であろうと重度であろうと麻薬取引には裏社会が絡んでいるのは当然で、「軽い」もので心理的な壁を取り除いておいて「重い」ものに連れて行くのが連中の手口です。

だから権力が現状追認するととんでもないことになるのですが、日米と中国の違いは、国家元首や最高権力者或いはそれに準ずる人間集団が麻薬や覚醒剤に無縁(と思われている)のが前者なのに対し、むしろ切っても切れない仲なのが後者たる中国ではないかと言うのが弊意です。

乾隆帝は阿片喫煙者だったと言うのが小誌の持論ですが、後を継いだ嘉慶帝の初仕事が阿片禁令の発布でしたから、清朝は「上から」そして「中から」腐ってきたことになります。

国家元首や最高権力者の行為は、たとえそれが法に触れてもお咎めなしなのが中国で、ましてや儒教のお国柄ですから父親の悪口は口が裂けても言えない、とすると取り締まるにも取り締まれなくなります。


話は飛びますが、沖縄県の昆布消費量が多いのは、江戸時代後期には日本海側を伝う様に「昆布の道」が出来ていたからで、当時の琉球王国は実質的に薩摩藩の占領下にありましたので、この「昆布の道」は薩摩が扼していたことになります。

常々疑問だったのですが、薩長の倒幕回天資金の出所は何処か、教科書では薩摩は砂糖の密貿易で資金を蓄え、長州は専売制の施行と朝鮮半島との密貿易で潤沢な資金を得たと言いますが、薩摩藩は島津斉彬の代に至るまで頭抜けて貧乏でしたし、長州だって威張れた財政運営はしてきませんでした。

ですが「昆布の道」を延長すればどうなるか、換言すれば船員を休息させたり船舶を修理し、或いは貨物を保管する云わば「休憩所兼中継所」的な存在を求めるとすれば、それなりの統治能力を持った政治集団が支配する琉球や奄美諸島がその候補となりえます。

お分かりと思われますが、「昆布の道」と「阿片の道」は一部で重なっていまして、広州から琉球、奄美を経て薩摩に至り、更に長州から対馬、そして朝鮮半島へと繋がるのが「阿片の道」、これなら回天資金の出所も辻褄が合います。

だから維新政府は阿片と厳禁とし、幸い天長とその周辺はこの薬禍に無縁でしたので、遠慮することなく防圧することが出来ました。

大英帝国としても貧乏だけど尚武の精神が強い日本を相手にして手こずるよりは、格段に懐が豊かでしかも文弱な中国に集中した方が効率的です。

やるもんです、近代日本。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-15 23:34

新大陸の意味

欧州が新大陸を「発見」したことには左程の意味はありませんが、新大陸がアジアを発見したことには大きな歴史的意味があると思われます。

新大陸の強みは何か、それはほぼ同時に近代にたどり着いたことにあり、近代に到達した最初の国家は英国で、それは(第二次)囲い込み運動で人民を「開放(解放)」することで始まりましたが、新大陸のそれは独立運動と言う形を採りました。

ですから米国はフランスよりも「近代国家」と言う点では先輩であり、しかも大英帝国からの独立と言う経緯から、反英的にならざるを得ず、英国を初めとする欧州各国が近代化の過程で「列強」に変貌し、各国はそれを認識し、しかもその点に疑問やおぞましさを感じないでいたのに対し、米国は近代化を通じて列強になったにもかかわらずそれを否定し、努めて列強と看做されない様に振舞うことを己に課しました。

新大陸によるアジア発見の最大の功績は太平洋を「有限」にしたことで、特に日本にとって太平洋岸は「水の壁」だったのが、距離は遠いけれど目的地のある「大きな玄界灘」へと劇的な変化を遂げ、これが後の海軍国日本に繋がります。

独立戦争に戻りますと、この戦争は大英帝国の正規軍に対して植民地の民間人が武器を手にして始めた戦いですから、銃による自衛権は建国の精神から言えば譲れない一線ですし、独立戦争の過程で各州が連携したことで「王制を排した連邦国家」を世界で始めて樹立すると言う偉業を成し遂げました。

そして米国は西へ西へと進み、太平洋を渡ってその衝撃が日本に達した時、近代化への助走期間にあった日本は近代国家への道を歩み始めることになります。


1820年と言えば阿片戦争が始まる20年前、既に阿片の災禍は中国全土に波及していましたが、それでもこの時期の清朝(=大清)のGDP(勿論推計ですが)は、一説によれば世界全体の3分の1を占めていたそうです。

それから190年余り、中国では日本を抜いて世界第2位の経済大国に躍り出たと言って沸いていますが、それでも一人当たりは日本の10分の1、文革終結期には全体が日本の5分の1乃至10分の1だったのではないかと考えられ、仮にそうだとすると「躍進」して日本と方を並べる程度なのですから、中国も落ちぶれたものです。

しかも最近の「躍進」は日本抜きには考えらませんから、つまり「近代」を卒業した日本に中国は近代について教えを乞うている訳です。

「近代」を如何に消化するか、それは何を以って「保険」とするかで決まります。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-13 22:42

再開します

と言っても僚誌「中国共産党に関する考察」に比べると頻度は少なくなりますが、あらためて可愛がって頂ければ光栄です。


宮崎市定京都大学名誉教授(故人)はその著書(アジア史論)の中で、地理上の分類としてのシリアの史的重要性を指摘しておられますが、現在の国家としてのシリア内戦をみる限り、その凄惨さが大方の耳目を引くことはあっても、その地理的(或いは地政学的)重要性を痛感させるだけの影響力は感じられません。(此処では国家としのシリアと地理的区分としてのシリアはほぼ重なり合うと看做します)

内戦、小競り合い、紛争等を含めた戦争は絶えた例がないですが、それに対する認識は時代により場所により参加国家によって大いに異なります。

日本では第四次、世界史的には第五次まで数えられる中東戦争(日本の第三次と第四次の間に「継続戦争」と言うのがある)の場合、戦いの帰趨を世界は固唾を呑んで見守りましたし、打倒シオニスト、イスラエル滅亡に関してはエジプトとシリアが同調し、結果としてイスラエルは二正面作戦を強いられていました。

そして反イスラエル両国の背後には、常に膨大な量の武器を供給する旧ソ連の存在がありました。


時代は変わり、エジプトが和解して以降のイスラエルは二正面作戦の悪夢から解放される一方、イラクやエジプト、それにリビアは「民主化」の洗礼を受け、その「民主化」の波はシリアと言う堤防に襲い掛かりつつあります。

この「民主化」そのものが眉唾物で、一連の政変劇はフェイスブック上場のためと小誌は信じて疑いませんが、それらの政変や内戦の仮定で浮かび上がってきたものは何かと言えば、それは「部族社会」でした。


これも宮崎史観を引用しますが、教授はイスラム教の成立(ヘジラ)を以って、西アジアは世界に先駆けて中世に到達したとしていますが、人類の歴史の多くの場面で西アジアが先駆者であったことは認めるものの、シリア内戦で白日の下に晒されたのは、宗派間(イスラム教スンニ派対アラウィ派)や部族間(アラウィ派は4部族からなる)の論理が優先する社会の現実で、国家と言う暴力装置を以ってしても如何ともし難いものがあると言う現実です。

そもそも部族や民族、宗教や国家とは何か、此処から問わねば歴史観は打ち立てられないのではないかと思われますが、小誌のそれに対する回答は「保険」です。

それから巨視的な観点から言えば、「新世界発見以前」と「新世界発見以降」、更には「米国側から太平洋横断以前」と「横断以降」で歴史は区分すべきではないか、有体に言えば太平洋航路が表街道ならばシルクロードは裏道、つまりシリアの重要性低下は米国と言う超大国の成立を踏まえなければ読めてこないのではないかと言うの愚見です。

(続く)
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by dokkyoan | 2013-01-11 23:54