世を毒する言動、空疎な報道・社説・論説等に遠慮仮借なく鉄槌を下します。


by dokkyoan

堤防を切ると言うこと

小誌は今、古代まで遡って中国を眺めていますが、何でそんなことをしているのかと言えば、今の共産党中国が「中国的近世を温存した政治体制」と言う小誌の仮説が正しければ、「中国的近世」とは如何なるものかを知らねばなりませんので、遠回りしている次第です。


中国が重視するのは今も昔も「水利」或いは「治水」で、大学に水利学部があっても不思議ではありません。

この点、日本と事情が異なっていまして、我が国には土木「学科」はあっても水利学科や治水学科の名称は殆ど見かけませんし、水利「学部」や治水「学部」に至っては、小誌の知る限り皆無です。


黄河や長江或いは大運河と、日本の河川を比較するなとお叱りを受けるかも知れませんが、関東や上方の主要河川の「付け替え」は、江戸時代に盛んに行われていて、要するに「治水」と「水利」は江戸時代に卒業してしまっています。

ですからこれらは「土木」に吸収されているのですが、実質的な中華文明の没落の始まりである乾隆帝時代の国力を以ってすれば、そして「数理優先」の思想があれば、もう少し時代は変わっていたかも知れません。


春秋の覇者たる資格の一つが、「従った諸侯に堤防の維持管理を申しつけ、故意に堤防を決壊させたり、それを許したりしないこと」でした。

日本でも鎌倉から室町時代にかけての分権傾向の強い時代、「難治の国」と言われた所、具体的には肥後や越中では、「堤防の切り合い」が日常茶飯事でした。

中央集権が確立しないと水利も覚束ないのです。

裏を返せば、中央集権志向が強い人物は、近代以前でも水利に関心を持ち、あの元朝(=大元)ですら黄河の堤防を修繕しているほどですから、河川を大事にします。

ですが「背に腹は代えられない」と思って、黄河の攻防を故意に決壊させた人物が20世紀にいまして、その名は蒋介石と言います。

1938年4月から6月に大日本帝国陸軍が発動した徐州作戦、日本軍は21万6,000名を動員し7,500名程度の戦死者を出して開封と徐州を占領、対する第五戦区総司令李宋仁率いる50万~60万の蒋介石軍(何で兵力が10万人単位で誤差が出るのか、おそらく中国はいまだに状況は代わらないと思われます)は、凡そその一割を失いながら撤退、その際、開封とその東側の鄭州の間を流れる黄河の堤防を決壊させました。

蒋介石は当時、漢口にその子飼い部隊(主力精鋭部隊)と共に居ましたが、鄭州から漢口までは一本道(鉄道も敷設されていました)、この街道を日本軍が怒涛の進撃をしてくれば大変と言うことで、「水浸し作戦」で日本軍の出足を食い止めました。

漢口は結局、同年8月に発令された武漢攻略作戦の過程で、日本軍に手中に落ちますが、この黄河決壊劇は蒋介石の「非近代的小中華主義」の欠点を遺憾なく表していまして、自分と己の「身内」だけが可愛いと言う「本音」を吐露して余りあります。

装備を施し教練したら「近代的軍隊」になると考えるのは大間違い、それなら常に倍以上の戦力で会戦に臨んでいた蒋介石軍が連戦連勝の筈ですが、現実には重慶と言う「届かない場所」にたどり着くまで負け続けました。

ここで注目すべきは、米軍将校が練兵だけでなく部隊の指揮も執った、中国とミャンマー国境に展開した「新軍」が、しばしばビルマ戦線で日本軍に苦杯を舐めさせている点で、「近世以前」と「近代以降」では雲泥の差があり、日米将校は「近代以降」だから良い勝負になるのですが、「近世以前」の蒋介石直属部隊は兵の多寡にかかわらず、敗北を重ねていきます。

そもそも開封が敵の手に落ちた段階で、鄭州を固めるか、漢口で待ち受ければ良かったのに、そうしないで堤防を決壊させたところに、艦隊保全主義ならぬ「子飼い部隊保全主義」が見え隠れします。

蒋介石は米軍だけでなく、あのナチス・ドイツからすら軍事支援を受けていますが、日本を含めいずれの国からも「近代」を学びませんでした。

中国が「近代」を理解するのはもっと先です、勿論、毛沢東ではありません。

(続く)
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by dokkyoan | 2012-09-19 00:06